大判例

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大阪高等裁判所 昭和51年(行コ)22号 判決

控訴人(原告) 増成啓人 外四名

被控訴人(被告) 大阪府教育委員会

主文

一  原判決中控訴人増成啓人、同松田仁司、同小川光二郎、同阿部誠行に関する部分を取消す。

二  被控訴人が、昭和四七年九月一日付でなした控訴人増成啓人を吹田市立第六中学校教諭に、控訴人松田仁司を同市立第一中学校教諭に、控訴人小川光二郎を同市立青山台中学校教諭に、控訴人阿部誠行を同市立高野台中学校教諭に各補するとの処分をいずれも取消す。

三  控訴人服部良子の本件控訴を棄却する。

四  訴訟費用中控訴人増成啓人、同松田仁司、同小川光二郎、同阿部誠行と被控訴人との間に生じた部分は、第一、二審を通じ、被控訴人の負担とし、控訴人服部良子の控訴費用は同控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

控訴人らは、「原判決を取消す。被控訴人が、昭和四七年九月一日付でなした控訴人増成を吹田市立第六中学校教諭に、控訴人松田を同市立第一中学校教諭に、控訴人小川を同市立青山台中学校教諭に、控訴人阿部を同市立高野台中学校教諭に、控訴人服部を同市立山田中学校教諭に各補するとの処分をいずれも取消す。訴訟費用は第一、二審を通じ被控訴人の負担とする。」との判決を求め、

被控訴人は、「本件各控訴をいずれも棄却する。控訴費用は控訴人らの負担とする。」との判決を求めた。

第二当事者の主張及び証拠関係

次のとおり付加するほか、原判決事実摘示のとおり(ただし原判決一九枚目三三枚目各表七行目の「平隠」を「平穏」に訂正する。)であるから、これを引用する。

一  控訴人らの主張

1  控訴審における転任処分理由の主張とそれに対する反論

被控訴人の当審における昭和五四年四月二三日付準備書面によると、控訴人らが国、大阪府、吹田市の同和教育政策に反対して同調協力せず、吹田二中当局の指示又は勧告にも服従せずして、同和地区の父母との間に激烈なる摩擦を生じ、特に昭和四七年六月二六日から二七日に及ぶ徹夜交渉の決裂によつて現場の大混乱を招いたため、同盟休校の危機を回避し、かつ、校内運営の平穏を回復すべく転任処分にしたということである。

右主張のうち、控訴人らが国、大阪府の同和教育政策に反対したということは、控訴審になつて主張を始めたことであり、その他は大筋において従来と同じであるが、その趣旨が強調されており、何もかも控訴人らが悪いといわんばかりである。

被控訴人は控訴人らが国と大阪府の同和教育政策に反対し同調協力しなかつたというが、何の根拠をもつてそのような主張をするのであろうか。

そもそも、吹田市同和教育基本方針、特にその具体的施策こそ国、大阪府の同和教育政策に反するものである。同和対策審議会(同対審という)答申は、「同和教育を進めるに当たつては教育の中立性が守られるべきことはいうまでもない。同和教育と政治運動や社会運動との関係を明確に区別し、それらの運動そのものも教育であるといつたような考え方は避けられなければならない。」といい、大阪府同和教育基本方針は、「教育の主体性をもち、学校教育と社会教育の連携をはかるとともに、関係諸機関および諸団体との連携をいつそう密にして」といつている。

このとおり、国の同和教育の基本は教育の中立性を強調し、大阪府は教育の主体性を前提にすえている。ところが吹田市の基本方針及び施策は解放同盟の実践に学び解同と連携することのみが強調され、教育の中立性、主体性は全く忘れ去られている。控訴人らは、この「教育の中立性」、教育の主体性の重要性を指摘してきたのであり、これに反対したことは一度たりともない。

このような吹田市のごとき同和教育の在り方について、文部省は昭和五一年七月同和教育資料を都道府県教育委員会に送付し、再び教育の中立性、同和教育と政治運動や社会運動との関係の明確な区別を指摘している。

このように、吹田市の同和教育の在り方こそが問題であり、このことが吹田二中問題(解同の教育介入による学校現場の混乱)を引き起こしているのであり、被控訴人の主張する混乱なるものの責任は吹田市教育委員会(市教委という)と解同光明町支部にあるのであり、控訴人らにはない。これを控訴人らの責任にして転任処分で事を解決しようとするのは、教育の中立性、主体性の放棄であり、教育行政機関としては自殺行為であり、教育行政に重大な禍根を残すものである。

2  本件転任処分のねらい

藪市教委教育長が説明した転任処分理由はいずれも事実に基づかないものであり、全く合理性、正当性がない。

それでは、その転任処分の真の動機、すなわちねらいは何であろうか。それは、市教委が解同光明町支部の圧力を受け、控訴人らを吹田二中から排除することにより、解同べつたりの吹田二中にしていくため、本件転任処分をなしたものである。またそのことによつて、市教委の学校支配、したがつて教師に対する支配を確立しようとするものである。

控訴人ら五名をひとまとめにして転任させたのは解同光明町支部にとつて気に入らない教諭の代表としてねらわれたものであるが、五名がねらわれたことについても、もうひとつ明確でないものがある。そこからみると、とりあえず五名を転任しようとしたのか、中心人物とみたのか、どちらかである。控訴人一人一人をみると、誓約書を書いた控訴人服部は別としても、他の四名についてどんな問題があるのであろうか。原判決は控訴人服部の言動を支持して混乱の増長に直接間接に影響を与えたと判示しているが、同控訴人の言動を支持したことはない。そうすると、五名をひとまとめにして転任したのは、これら五名の教諭を一団のものとして扱い、吹田二中から排除しようとしたというほかはない。藪教育長は当審において、二学期からの授業については、「二中問題のことについては、その当時のことは授業が行える状態であつたというふうに理解はしております。」と証言しており、同盟休校の危険などがなかつたことを認めている。そしてこの転任の件については、七月二五日の段階で考えていたことも証言している。またその期日にそれは吹田二中で起きている事態の解決のための人事異動であることも証言しており、まさしく事態の解決のために控訴人五名らは転任させられたことになる。この事態の解決というのは、混乱の回避ではなく、解同の言い分を飲むことである。

藪教育長は、「五名に対して校長から内示をした時点で、我々は市教委の方針、学校の方針に絶えず反対を継続的反覆してきたという自覚はあつただろうと思います。そのことが転任の理由になつたということは、私から言わずとも十分本人の方で分つておつたと、私は思つております。」と証言しており、右証言によると、吹田市の教育方針に継続反覆して反対していたということであり、単に六月二六日から二七日にかけてのこと、それ以後のいわゆる混乱のこと、同盟休校の危険の発生といつたことでないことは明らかである。要するに、吹田市教育委員会の同和教育の方針に則つてみて、吹田二中の教諭として不適格であるということである。ところでこの吹田市の同和教育方針は国及び大阪府の同和教育方針に反し、教育の中立性、主体性を投げ捨てた解同べつたりのものであり、この誤つた同和教育方針を教師に押しつけ、正しい立場で意見を述べる教師を転任しようとするのは、教師の教育に対する不当な介入である。そして本件転任処分は吹田二中の混乱、同盟休校の危険の発生の恐れを理由とするものでないことを示すものである。

この解同の圧力による転任、解同べつたりの同和教育を押しつけることをねらつた転任処分が違法であることは明らかである。

3  「吹田市同和教育基本方針」並びに「同和教育推進についての具体的施策」批判

(一) 基本方針、具体的施策と同対審答申・大阪府同和教育基本方針・同施策との根本的差異と問題

(1) 同対審答申における教育問題―学校教育―に関する対策

同対審答申は、教育問題に関する対策の基本的方針として、(ア)「同和地区の教育を高める施策を強力に推進するとともに個人の尊厳を重んじ、合理的精神を尊重する教育活動が積極的に、全国的に展開されねばならない。」(イ)「しかもそれは同和地区に限定された特別の教育ではない。」――としたうえで、(ウ)「同和教育を進めるにあたつては、教育の中立性が守らるべきことはいうまでもない。同和教育と政治運動や社会運動の関係を明確に区別し、それらの運動そのものも教育であるといつたような考え方は避けられなければならない。」と指摘している。そのうえで学校教育に関して一〇項に及ぶ具体的方策を示しているが、その中で教育内容・方法に関しては、「差別事象等の発生した場合には教育の場においてそれの正しい認識を与えるよう努力すること」とする以上には触れず、他の九項目はいずれも教育条件の整備に関する事項を規定したものである。

右に明らかなとおり、同対審答申からは、基本方針で掲げる、(ア)同和教育は民主教育の原点、(イ)同和教育に取り組む教職員は、部落の解放に取り組まねばならない、(ウ)部落解放の願いと実践に学び推進するというごとき内容は出てこず、また具体的施策(45・5・28制定)で掲げる、(ウ)同和教育は民主教育の原点、(イ)解放同盟を中心に、地区内諸団体との連携を密にするという内容も導かれるものではない。

(2) 大阪府同和教育基本方針及び同具体的施策の基本的性格

府の基本方針は、吹田市の基本方針のごとく、同和教育は民主教育の原点であるというような規定はせず、教育の主体性を保ち本方針を実施していくものとし、その具体的施策において学校教育に関するものとして七項目の内容を記している。そしてその施策は容易に理解されることであるが、すべて教育条件、就学・就職条件など条件整備に関する事項を定めたものであり、それらを府が自らあるいは市町村教育委員会を指導して実施していくと定めたものである。

換言すれば、府の基本方針や具体的施策では全く教師の同和教育の実践に関係する内容・方法は規定していないのである。これは教育基本法一〇条に基づく教育委員会の権限からして当然な事柄なのである。

(3) 基本方針、具体的施策の持つている問題

ア 基本方針の持つ問題点

基本方針における問題をすべて記すことは避けるが、特に本裁判で触れざるを得ない内容上の基本的問題は次のもである。

(ア) 「同和教育は民主教育の原点であ(る)」とする点

(イ) 「教職員は、みずからの課題として部落の解放にとりくまねばならない」とする点

(ウ) 「部落解放の願いと実践に学ぶ」とする点

右三点から総合的に捕えられる内容的問題は明らかであろう。

それは、第一に同和教育原点論という同和教育の位置づけ、意義に関する特定の見解を基本方針の内容として導入しているという点にある。

第二に右原点論を採用すると同時に、「部落解放の願いと実践に学び」「教職員は、自らの課題として部落の解放にとりくまねばならない」と規定する結果、教師・教師集団の教育の主体性、教育権限の独立が放棄されてしまい、かつ、それらが部落解放運動に従属する結果を引き起こす内容を基本方針として有していることである。

この基本方針が持つ根本的問題は、同対審答申や大阪府同和教育基本方針及び同具体的施策には全くなかつたものである。既にみたとおり、同対審答申は「同和教育の中心的課題は法のもとの平等の原則に基づき、社会の中に根づよく残つている不合理な部落差別をなくし、人権尊重の精神を貫くこと」「個人の尊厳を重んじ、合理的精神を尊重する教育活動が積極的に、全国的に展開されねばならない」「憲法と教育基本法の精神にのつとり基本的人権尊重の教育が全国的に正しく行なわれるべき」と述べ、前述のとおり具体的施策を提示しているが、同和教育は民主教育の原点というがごとき定義・位置づけなど決してしていない。

それに加え、同対審答申は教育の中立性、同和教育と政治・社会運動との明確な区別を注意深く進言している。

これと同様に、大阪府同和教育方針においても、同和教育原点論は当然のことながら採用せず、かつ、用心深く「教育の主体性をたもつ」と明言しているのである。

したがつて同和教育の意義・位置づけについて基本的な相異点を有する以上、原判決のように基本方針が同対審答申や大阪府の基本方針を受けて作られたとは絶対にいい得ないのである。この内容上の基本的相異はそれぞれの制定手続への参与者の相異の反映でもあるが、この点は後述することとする。

イ 具体的施策の持つ問題点

右に基本方針が有する基本的問題について述べたが、その問題は具体的施策へ必然的に問題を発生させている。しかも具体的施策は現在までに二度にわたり改正されているが、これは改訂ごとにその有する問題を明文化させる過程であつた。次に具体的施策の問題点を整理し、検討を加える。

(ア) 昭和四五年五月二八日制定の具体的施策の持つ問題点

(あ) 「同和教育は民主教育の原点である」(推進体制の確立の項)

(い) 地区学習(第八項)

この地区学習会について述べる第八項より第一〇項(連携と組織の確立の項)までは対比すれば明らかであるが、府の具体的施策には定められていない事項である。しかもそれらは本裁判でも同和教育の取組み経過の中で争点になつたものである。

ここでは、まず「同和地区の児童・生徒に対し、差別にうちかつ学力を身につけさすことを目的に地区学習を推進する」という地区学習の取組みが学校教育としての具体的施策として、かつ、学校が行うべき施策とされていることの問題を指摘しておく。

この問題は第一に、証人杉尾教授が指摘されるごとく、同和地区だけを特別にした取組みは、公教育として正しくないということである。同教授は著書「新しい同和教育」中で、この問題に関連して、「憲法二六条は“すべて国民は、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する”と宣言しているわけです。この点では、同和地区であろうと地区外であろうと問うものではありません。発達段階に合つた適切な教育が、ひとしくなされることは憲法上の要請」「学力問題を部落問題の窓からみるのではなく、すべての子どもにゆきとどいた学力保障の課題実現の観点から、同和地区の子どもの学力保障の問題もとらえる必要がある」と指摘される。

右杉尾教授の指摘のとおり、地区学習は憲法二六条、教育基本法三条(教育の機会均等)に違反する問題を有しているのである。

地区学習の持つ問題の第二点は、八項には文言上一応「学校が主体的に行なう」と規定されているが、実態的には全くその保障がなく、市教委も右の保障に全く努めないという点にある。すなわち、学校の主体性が保障されないという点は、先に述べた基本方針の持つ問題点であつた「部落解放の願いと実践に学び」、そしてこれを具体化した具体的施策第一〇項の連携と組織の確立における「解放同盟との連携を中心に」同和教育を推進するという点から帰結されるのである。より簡潔に言えば運動団体である解放同盟の願いと実践に学び展開される同和教育(地区学習)に学校の主体性が保障されるはずがないのである。

(う) 連携と組織の確立(第一〇項)

具体的施策第一〇項は、「同和地区を有する学校では、解放同盟を中心に、地区内諸団体との連携を密にして、地区の「同和教育推進協議会」(仮称)に対する積極的な助成活動を行なう」としている。

右施策内容は公教育を行う学校が私的自主的団体を積極的に助成するというものであつて、実に不可解な規定であるといわねばならないが、その本来の意味は昭和四九年六月二〇日改訂にかかる「連携と組織の確立」の項の規定内容にある。

そしてここで注意すべきことは、右改定内容が実体的には既に制定時の実態であるということである。すなわち「同和教育推進校は解放同盟との連携を密にして、同和教育を推進する」というのが第一〇項の本意である。

しかし、公教育として展開されるところの同和教育が特定運動団体との連携によりなされるということを肯認する余地のないことは多言を要しない。特定運動団体たる解同光明町支部との連携というものは、憲法二三条、同二六条、教育基本法一〇条一項に明らかに違反するものなのである。また「教育の人間的主体性」「真理教育の自由性」「教育の専門的自律性」「教育の自主的責任性」を明白に侵害するものとなる。

(イ) 具体的施策のその後の改訂経過

(ア)に述べた具体的施策は、その後昭和四六年六月四日及び同四九年六月二〇日一部改訂が加えられた。これら改訂は一言で指摘すれば、いつそうの教育の主体性、教育権限の自主性に対する侵害過程であり前述の解放運動への従属、解同光明町支部への従属の実体の明文化である。

まず昭和四六年六月四日改訂において、推進体制の確立の項に「特に同和教育副読本「にんげん」を軸に、差別を許さない、差別にうちかつ児童・生徒を諸活動を通じて育成する」という内容が盛り込まれた。この副読本「にんげん」の半ば強制的な使用の規定は明らかに学校教育法二一条二項、教育基本法一〇条二項に反するが、より無視し難いのは、その編集・発行の責任主体が解放同盟に握られているということにある。かかるものを副読本とすること自体、非常識極まりない違法なものである。

更に昭和四九年の改訂は重大な問題である。しかしそこに明文化された内容は既に実態化されていたものである。この改訂(明文化)は前述した問題を有した地区学習に対応する「補充学習の推進」の項からの学校の主体性の文言の削除と、連携と組織の確立の項の「同和教育推進校は解放同盟との連携を密にして、同和教育を推進する」という文言への実態的明文化である。

これら改訂(明文化)内容がことごとく違法であることは既に詳述したとおりである。

(4) 基本方針、具体的施策が必然的に引き起こした教育への介入、教育の中立性、自主性に対する侵害

(3)にみたように基本方針、施策は、同対審答申・大阪府同和教育基本方針・同具体的施策と相いれない根本的問題を持つものであり、それら問題は憲法二三条・同二六条、教育基本法一〇条二項等に違反する違法評価を受けるものであつた。このため基本方針、具体的施策はその後さまざまな教育への介入、教育の自主性侵害への合理化の口実となつていつたのである。本件における具体的な解同光明町支部の介入は4で詳述するが、これら介入をみるに際し基本方針、具体的施策の制定(さらに改訂も同様と容易に推定できる)に解同光明町支部のみ関与し、且つ主導的地位に立つたという要素を看過する訳にいかない。

本項では基本方針、具体的施策の持つ根本的問題が引き起した教育への介入、教育の中立性、自主性侵害の具体例として特に次の事例を指摘しておく。

ア 甲第八九号証に見る異常さ

同文書は二中生徒会の発行した文書であるが、そこに記された「声よとどけ 無実の石川氏即時釈放」「怒りよとどけ 差別裁判は許さないぞ」との文言、そして、一・二八同盟休校に連帯する全校集会成功への呼びかけ、これは連携、すなわち、解同光明町支部の運動に二中の教育が従属した結果、生徒会による文章内容にまでかかる異常内容が発現したものであるといわざるを得ない。

これと同様のことは甲第九〇号証からも指摘できる。これは右生徒会が呼びかけた一・二八同盟休校・全体集会に関連するものであるが、そこでは「解放同盟に結集する仲間が同盟休校をした」「この五月二十二日に、さらに闘いを前進させようと、大阪の多くの同盟に結集する仲間が同盟休校をする予定」等と記し、「その意味を考える」資料集だとしている。解同が中心となり狭山差別裁判との位置づけの下に無罪判決を勝ち取る運動の一環と位置づけられている同盟休校、そして、それへの連帯を積極的に評価し、二中の生徒に対する指導をしていく。公教育を担う学校内で生徒に対し、かかることを教育することが肯認されるというのであろうか。これまた連携のもたらす教育の中立性侵害、運動の教育への介入の典型例である。

イ 甲第九三号証に見る異常さ

これは二年国語一学期期末テスト内容である。その問〔六〕を見てぼう然とするであろう。アに述べた狭山裁判被告人の作つた短歌を六首出し、そして「作者のどんな気持ちを表していますか」等と問う。これが正規のテスト内容であろうか。吹田市教委はかかるものを連携の具体的実践と評価するのか、連携のもたらす教育荒廃も極まれりというものであろう。

ウ 甲第九八号証にみる子どもの真しな声とそれに答えぬ教師の姿勢

ここには、(3)(イ)(ア)(い)に述べた地区学習(補充学習)が憲法二六条に反することを指摘する子供の声が出ている。すなわち「勉強わからへん!光明町とくやん!」「ほじゆう(補充学習)ある」「むかし差別されてたと言うけど 今は今 光明町スゴクとくやろ― 先生はこのことについてどう考えてんの?」と。まさしく杉尾教授が「確実に同和地区を特別に扱つて、特別のやり方にし、どうしてあそこだけ得するんだという議論、なぜ私も同じようにできないのに、自分よりできる子がいる、できる子も含めて、同和地区ではそういうふうにやつているのかという、そういう質問には答えられないし、そのことから起こつてくる偏見と申しますか、部落を特別視するのはおかしいじやないかということから起こつてくるさまざまな助長される差別観念もまた心配になります。」といわれるものが右の子供の声である。

しかるにこの子どもの問に対する教師の答が、「その運動に学んでもつともつと闘い、学習せなあかん。」というのである。連携に忠実な、すなわち、解同に従属する教師は右のごときことしか子どもに答え得ないことを、このクラス紙より知ることができるのである。

エ 甲第一〇一号証にみる二中の学校計画の異常、公教育への背反

右学校要覧の2吹田二中の学校計画を見れば異常さを詳述する必要はない。例えばその(3)(4)は、(3)部落の完全解放のために、学校教師集団の規律に基く、目的意識的な解放教育を推進する。(4)学校管理、運営の基本に解放教育推進の論理をすえる。となつており、吹田二中の学校計画は解放教育至上である。更にこの学校要覧は「解放歌」まで掲載している。

これらのことは、具体的施策の、連携と組織の確立の項で「同和教育推進校は解放同盟との連携を密にして、同和教育を推進する」と規定し、また基本方針や具体的施策の推進体制の確立の項で「同和教育は民主教育の原点である」と規定することから引き起こされることなのである。これら学校要覧に知る学校計画が公教育を担う学校の計画として容認されるものでないことはいうまでもない。

オ 以上具体的に指摘した以外にも甲第九一号証・九二号証(以上生徒会文書)、甲第一〇六号証(「狭山差別裁判」なるものの学習経過等を記した文集)等を見れば、基本方針、具体的施策に沿うものとして展開された結果、二中教育は典型的な解放同盟の運動が教育の場をじゆうりんするものとなつている。これが同対審答申が教育の中立性を、大阪府同和教育基本方針が教育の主体性をうたつたことに完全に背馳する内容のものであることは極めて明白である。

(二) 被控訴人による提携原則改訂の指導

(一)に述べたとおり基本方針、具体的施策は憲法二三条・同二六条、教育基本法一〇条一項等に種々違反する違法な内容を有していた。そして、何よりも公教育への運動の介入を許し、教育の自主性、主体性、教育権限の独立を侵害する制度的保障条項となつていた連携、すなわち解同光明町支部への従属条項は存置すべからざるものであつた。

被控訴人は過去同盟休校、狭山問題教材化が正常でなく、排除することを指導する旨確認をしたり(甲第一〇三号証)、通達を発したり(甲第一五七号証)したが、遂に市教委に対しては「特定団体との連携について、府の基本方針にもとる」として改訂を指導するに至つた(甲第一五一ないし一五四号証)。

(三) 結論

原判決は、基本方針、具体的施策にいう解同光明町支部との連携を肯認したうえで、控訴人らを「解同光明町支部と連携して同和教育を推進するという吹田市教育委員会の方針に必ずしも同調しない。」とし、「その方針に従つて教育行政を行うこととし、その方針に従わない者を排除することもやむをえなかつた。」としたのであつたが、この判断が完全に誤つていることは以上(一)(二)に述べてきたことから明白である。

控訴人らは真に正しく同和教育を展開してきたのであり、その教育内容のゆえに転任処分を甘受せねばならない理由が全くないことは明白である。

4  吹田二中における同和教育の実践並びに解同光明町支部の教育介入の実態とそれに対する市教委の対応

(一) 吹田市における同和教育の取組

吹田市内においては、昭和三六年以前は同和教育の取り組みは全くないといつてよい状態にあつた。同年四月に控訴人の松田が吹田市の教員として赴任してから、同人を中心として、吹田市内でも同和教育への関心が持たれるようになり、同年秋頃から翌三七年にかけて何回か研究会が組織されたりした。こうした状況のなかで、昭和三七年三月に当時の解同吹田支部からの要求を受けていた吹田市教育委員会が、控訴人の松田に対して、吹田市の同和教育の研究組織を作るための協力要請を行つた。これを受けて、同年五月に控訴人松田ら現場の教員が中心となつて、吹田市同和教育研究協議会(吹同教という)を発足させるに至つたが、吹同教は教師の任意の研究団体ではなく、吹田市内の公立の小・中学校のすべてが学校単位で加盟するため、吹田市内の公立の小・中学校の全教員が会員となつており、また市教委からの補助金で組織が運営されるというように、公的な性格が付与されていた。

吹同教がこのようにして発足して以来、これが吹田市における同和教育の実践の中心となつていたのであるが、市教委もその活動を積極的に評価していた。そして控訴人らは(服部を除く)、いずれもこうした吹同教の活動では中心的な役割を果たしており、特に控訴人松田は吹同教発足当時に副会長に就任し、また昭和三八年度から昭和四五年度までは事務局長を勤めるなど、吹同教のまさに中心的な存在であつた。

(二) 吹田二中における同和教育の起こりとその発展

(1) 昭和四二年から始まつた同和教育の取組

校区に同和地区を持つ吹田二中においても、他の吹田市内の学校と同様に昭和四〇年頃までは同和教育は全くといつてよいほど取組がなされていなかつた。昭和四二年四月に、同和教育を実践したいという本人の希望で控訴人松田が吹田二中に転勤して以来(吹田二中への転勤希望はそれまでは皆無であつた。)、吹田二中において同和教育の具体的実践が始まつた。

当時の吹田二中の教員はその多くが同和教育あるいは部落問題についてほとんど関心がなく、職員会議で同和教育の問題が議題となることもなく、また同和教育主担者についても他の教員が無関心のなかで校長が一方的に任命するといつたような状況であつた。こうしたなかで転勤をしてきた控訴人松田が中心となつて同和教育に関する研究会が何回も開かれたり(同年一一月から一二月にかけて、部落問題研究所から講師を招いて、五回にわたつて同和教育研究講座を開いている。)、また昭和四三年五月には当時の解同吹田支部と吹田二中教員との懇談会が持たれるなど、教員自身が部落問題や同和教育に関心を持つようにするための努力がなされた。その結果多くの教員がこうした問題に関心を持つようになり、昭和四三年度から同和教育主担者を職員会議における選挙で選出したり(初年度は控訴人松田が選出された。)、また同年度から校内に同和教育委員会という組織が発足し、そこが中心となつて、教師に対する研修の推進と生徒に対する教育活動の計画・立案がなされるようになるなど、学校全体が組織的に同和教育に取り組むという体制ができあがつていつた。

(2) 昭和四二年度から翌四三年度にかけての主な同和教育の実践

ア 吹田二中では、右にみたように、昭和四二年度から、学校全体として同和教育が取り組まれるようになつたのであるが、当時こうした同和教育を実践した控訴人らを含む教員たちの同和教育の課題あるいはその在り方についての認識は、概ね次のようなものであつた。

すなわち同和教育というものを、部落差別という不合理な差別を日本の社会からなくすための教育として捕らえ、それ故に全生徒を対象として、部落問題についての科学的で正しい知識を教え、彼らにそれが民主主義に反する許しがたいものであるという認識を持たせることを同和教育の基本的な課題として捕らえていた。またそれと同時に同和地区の生徒たちが現実の差別に対して負けることなく、また将来もこれを乗り越えていけるだけの力を教育の場で身につけることも重要な課題として捕らえていた。ここでいう力というのは、単に学力だけでなく、情操面、体力面など多方面にわたるものであり、特に彼らが集団のなかでこうした力を作りあげていくということ(いわゆる仲間づくり)が重視された。こうした点では、例えば学力向上の問題についても、単に特別の授業をすればそれで解決できるということではなく、生徒や親たちにいかに学習の意欲をもたせるかということが極めて重要な課題として提起されてくるのである。更にこうした同和教育を進めるにあたつて、同和地区住民との関係をどのように捕らえるべきであるかということも重要な問題であるが、この点については部落の実態や住民の要求を知らずして生きた同和教育を行うことはできないという観点にたつて、地区住民との密接な交流を持ち、住民の要求を教育の現場に反映させていくことが非常に重要であると考えていた。それゆえ控訴人らは当時同和教育を進めるにあたつて、常に地域とのつながりを深めることを積極的に提起してきた。なお、もとよりこうした考え方は、教員が教育に対して責任を負うべきことを否定したり、あるいは特定の人物や団体が教育の独立を侵し、教育に介入することを容認するものでないことを付言しておく。

イ こうした基本的な観点にたつて、昭和四二年度から取り組まれた吹田二中における同和教育は、当初は部落問題などに関心を持つようになつた教員らが、それぞれ担任する生徒たちに対して部落問題についての科学的で正しい見方を教えることから始まつていつた。そして昭和四三年にはいつて、非行問題を克服する取組が同和教育の重要な一環として行われた。すなわち、昭和四三年度は、吹田二中で非行問題が続発したが、その克服を同和教育実践の一環として位置づけ、生活指導委員会と同和教育委員会とが合同でこれに取り組んだ。

こうして取り組まれた非行問題克服の実践は、それと取り組んだ吹田二中の教員に次のような教訓を与えた。その一つは、生徒や父兄の置かれた状態や要求をよく知つたり、教員と生徒と父兄とが信頼し合えることが重要であるということであつた。それと同時に重要な教訓は、教育実践を行う教員がほかから強制されるのではなく、教員自身が自覚的に取組を行うことによつて始めて教育効果を挙げることができ、またその中で教師集団のまとまりが極めて重要であるという点であつた。

ウ 非行問題克服の取組以外に、この間吹田二中で取り組まれた同和教育の主なものは、同和地区に夜間出向いて行う進路指導や父母との懇談会(甲第一三四号証)、夏休み中の同和地区での学習会(甲第一三五号証)、同和地区の卒業生を対象とした集い(甲第一三六号証)などがあるが、控訴人ら(服部を除く)は積極的にこうした活動に参加してきたのである。

(三) 昭和四四年以降の解同光明町支部の教育への介入とそれに対する吹田二中教員の対応

(1) 解同光明町支部の結成

解同の吹田市内における組織としては、昭和三六年に吹田支部が結成され、光明町の約六割の住民を組織していた。ところが昭和四四年にいたり、それまでは解同とは対立的な関係にあり、保守層を基盤として組織されていた全日本同和会吹田支部が解散し、同年二月に当時責任者の地位にあり皮革工場を経営する地区の資産家である高田登美雄を支部長とする解同光明町支部が解同大阪府連の一方的な指示によつて結成された。その結果吹田市においては、解同吹田支部と解同光明町支部とがしばらくの間併存することになつたが、その組織実態は前者が後者を圧倒していた(前者は光明町住民の六割を組織していたが、後者は一割にも満たなかつた。)。ところが同年九月になつてこの二つの組織が解同光明町支部に一本化されたが、組織的に圧倒的に小さかつた光明町支部の方に一本化された背景には次のような事情があつた。すなわち、解同光明町支部は結成してすぐに大阪府連の援助を受け、当時の山本治雄吹田市長に対して、同和行政を解同光明町支部のみを通じて行うといういわゆる窓口一本化方式を行うよう迫つた。しかもこの迫り方は、三日三晩同市長宅を包囲して電話線を切断したり水道栓を止めたりするなどまさに力で屈服させるという形のものであり、これに屈した同市長は、解同光明町支部との間で窓口一本化の覚書を締結することとなつた。その結果、同じ光明町の住民でありながら、解同光明町支部に所属しない者は吹田市の同和行政の施策(住宅入居、保育園の入所、就学奨励金の支給、生業資金の貸付など)が全く受けられないことになつてしまい、まさにこうしたことを背景として、解同光明町支部へと一本化されていつたのである。

(2) 解同光明町支部の教育介入の具体的経過

昭和四四年にこうした解同内部における組織的混乱があつたが、控訴人らを含む吹田二中の教員は、どちらの立場にも立たず、中立的な態度を取つていた。ところが解同光明町支部は結成されるとすぐに、吹田二中の学校当局あるいは教員に対し、さまざまな要求を押しつけ、明らさまな教育介入を行うようになつた。その経過は次のとおりである。

ア 「矢田問題」差別決議要求(昭和四四年四月)

解同光明町支部は、結成されるとすぐに、控訴人らを含む吹田二中の多数の教員が加盟する吹田市教職員組合(吹教組という)の吹田二中分会に対して、いわゆる「矢田問題」(大阪市教職員組合の役員立候補者のあいさつ状が解同大阪府連によつて差別文書とされ、糾弾がなされた事件)を差別事件である旨決議するよう要求してきた。これに対して吹田二中分会は、この問題は大阪市教職員組合の問題であるから吹田二中分会として決議するような性質の問題ではない旨回答した。

イ 小川報告問題(昭和四四年五月)

次に昭和四四年五月に、吹教組主催の組合員の集会(部落解放教育学習会)において、控訴人小川が昭和四三年度に吹田二中で行われた非行問題との取組の報告を行なつた際、たまたまその集会に出席していた解同光明町支部の高田支部長(特に来賓として招待されていたわけでなく、事実上出席していたにすぎない)が、司会者の了解も得ずに、会場でこの報告が差別であると発言する事件が起こつた。すなわち、高田支部長は控訴人小川が吹田二中校下の状況を説明する際に同和地区が存在することを述べた点を捕らえて、「光明町があるから非行が起こる。」と報告したとわい曲してこれを差別だとしたのである。

もとより控訴人小川の報告は甲第五三号証を読めば分るように何ら差別ではなく、高田支部長によるこうした発言は吹田二中教育に対する介入の口実を作り出そうとしたとしか考えられない。しかしこの発言については、その場で控訴人松田らが報告の趣旨を再度説明して特に混乱もなくこの集会は終わつた。そしてこの控訴人小川の報告はその後特に問題とされることなく経過したが、昭和四五年一一月に起こつた後述する「橋のない川」試写会妨害事件の直後になつて、吹田二中における数々の差別事件のうちの一つとして、解同光明町支部によつて突然持ち出されるのである。

ウ 地区学習会問題(昭和四四年六月~同四五年一月)

昭和四四年六月になると、解同光明町支部より吹田二中と岸部小学校(光明町を校区に持つ小学校)に対して地区学習会(夜間光明町で行われる学習会)を行うよう要求が出された。控訴人らを含む吹田二中の教員は、この要求に対し、教員のいわゆる本務ではないがその意義を認めてこれを実施する方向で検討を始め、具体的には、市教委、吹田二中、岸部小学校、吹同教、吹教組、解同光明町支部の六者で、同和教育の推進協議会結成準備会を作つて、地区学習会の実施計画を練つていた。ところがこうした協議を続けていた途中である昭和四四年一一月に、控訴人松田が吹教組の対市交渉の席上吹田二中の校舎改善の要求を行つたことを捕らえて、解同光明町支部の高田支部長が同年一二月一二日に控訴人松田と市教委の阿古指導課長を解同北摂ブロツクの役員会の席上に呼び出し、控訴人松田に対しては、「地区学習会もやらないで校舎改善の要求をするのは、我々が勝ち取つた同和予算を横取りするもので許せない。吹田二中と岸部小学校の教員全員を糾弾する。」旨の通告をし、また阿古指導課長には糾弾会に参加するよう教員に職務命令を出すように求め、同課長がこれを予承するという事件が起こつた。

こうした糾弾通告は、準備中の地区学習会が思うように進展しなかつたことにいら立ちを覚えていた高田支部長が、早期にこれを実施させようとしたものであつた(なおこの糾弾通告については大阪府教職員組合とも相談しながら、解同大阪府連とも接触しつつ糾弾を回避することができた)。こうした事態を経るなかで吹田二中と岸部小学校を中心にして地区学習会の具体的計画が煮詰められ、昭和四五年一月六日に市教委、吹教組、吹田二中、岸部小学校との間で最終的な計画案が完成された。そしてこの計画案は、吹田二中では一月八日に職員会議に諮られて了解が得られ、翌一月九日には吹田二中と岸部小学校の同和教育主担者から、高田支部長に対して報告がなされた。

ところが高田支部長からは、学校側の立てた計画では学習会が各学年ともそれぞれ週一回しか持たれることになつていないが、それでは少なすぎるという指摘がなされて、この計画案が拒絶された。そして一月一二日には、そのことを論議していた岸部小学校の職員会議の席上に現われて、「地区学習会の問題でこれ以上相談することは許さない。個人で判断して、部落差別をなくさなければならないと思う者はやり、部落差別をなくさなくてもよいと思う者はやらなくてもよい。皆で相談することは、やる気のある者の足をひつぱることになるので、それは許さない。今日四時半から六時まで光明町の隣保館で待つているのでやる気のある者は来てほしい。」と述べた。その結果、岸部小学校では教員の意見が別れてしまい、一二人が参加し、二七人が参加しないということになり、教師集団が分裂するという不幸な事態に立ち至つてしまつた。

こうした事態を経て、同月一五日に解同大阪府連の役員を交えて、吹田二中、岸部小学校の教員と解同光明町支部との話合いが持たれ、その席上、解同大阪府連の役員からは、教師集団を分裂させるようなやり方は好ましくないとの指摘がなされるとともに、教員全体が一致して地区学習会に参加する方向で努力をしてほしい旨の要請がなされた。そして吹田二中では、この要請を踏まえて、従来の計画を変更し、各学年ともそれぞれ週二回実施するという解同光明町支部側の要求を受け入れる形で計画を作り直し、同月一七日から現実に実施することとなつた。そしてこうして実施されることになつた地区学習会は翌昭和四六年三月まで何の問題もなく行われた。

以上が地区学習会問題の経過であるが、ここに現われたものは解同光明町支部の「要求」というものが、教育に対する父兄等の要求として許容される限度を著しく逸脱した、いわば脅かしを背景とした強要とでもいうべきであることである。しかしこうした強要に対しても、控訴人らを含む吹田二中の教員らは、決して硬直した態度をとらず、教育現場における混乱をできるだけ避けるために、極めて現実的で柔軟な対応をしていることが特に指摘されねばならない。

エ 教職員組合の運動方針修正問題(昭和四五年五月)

昭和四五年五月に控訴人らが加盟する吹教組の定期大会が開かれたが、この運動方針案に対して、吹田二中分会として修正案を提案した。この修正案では、地区学習会を巡る前述したような一連の事態を経験した直後でもあつたことから、教育は教員が主体性を持つて進められるべきものであるということを運動方針に明記すべきことを提案し、また前述の地区学習会問題を巡つて、岸部小学校の二名の教員が解同と対立したという理由で配転させられたことに対して、反対の態度を取るべきである旨の提案を行つた。ところがこれを知つた高田支部長は、大会の翌日に控訴人松田を自宅に呼びつけて、吹田二中分会の修正案は解同を敵対視したものであるので取下げるように求め、もし取下げることができないのなら控訴人松田が同和教育主担者を辞任することを求めた。しかも同支部長はその際控訴人松田に対して、同人が同和地区の出身であることを捕らえて、「お前は、住んでいるところで、部落出身であることを隠しているのだろう。お前がそういう態度を取るんだつたら、住んでいる所へ行つて、ばらしてやろうか。」などという、いやしくも部落解放運動団体の幹部にはあるまじき露骨な差別発言まで行つた。

ところでこうした高田支部長の要求については、吹田二中分会として協議を行つたが、修正案の取下げにも、同和教育主担者の辞任にも応じられないことが確認された。その後高田支部長から吹田二中の学校長と控訴人松田が同支部長宅に呼び出され、前述の要求の回答を求められた。それに対して、要求には応じられない旨の回答がなされたが、高田支部長は控訴人松田を「ばかたれ」などと連発しながら罵倒し、更に学校長に対して、「こういう同和教育主担者に対する指導をようせんのだつたら自分の方でする。」などと言いながら解同大阪府連に電話をかけて、あたかも解同大阪府連からの動員を要請するかのような態度を示しながら脅かした。こうした脅かしを受けた控訴人松田としては、それ以上要求を拒絶すると教育現場に混乱がもたらされるであろうことを懸念し、一定の譲歩をせざるを得なくなり、修正案の取り下げと同和教育主担者の辞任をすることはできないが、修正案の中に一定の弱点があつたということで大会の最終日に控訴人松田が補足的な発言をするということを提案し、高田支部長の了解を得ることができた。そして現実に、控訴人松田は分会員の了解を得たうえで翌日開かれた大会の最終日に補足発言を行い、この問題に終止符を打つた。

以上がこの問題の経過であるが、ここでの高田支部長の要求なるものは、本来労働組合の自治に属する問題についての介入であつて、要求自体不当なものといわなければならない。しかもそれだけでなく、要求の仕方そのものについても、解放運動などとは縁もゆかりもない極めて低劣なものであり、社会的にもとうてい容認されるようなものではない。またこの問題の処理においても、控訴人らの対応が決して硬直したものではなく、教育現場を混乱に陥れることをできるだけ回避するための柔軟な対応であつたことが指摘できる。

オ 「橋のない川」試写会妨害事件(昭和四五年一一月)

昭和四五年八月に、学校長より、同和教育副読本の「にんげん」が配付されるにあたつて、その事前指導として父兄をも対象にして映画「橋のない川」第一部を上映してはどうかという提案がなされた。この映画「橋のない川」第一部、解同中央本部の協力で製作され、当時解同が中心となつて上映運動が進められていた。この学校長の提案は同和教育委員会に諮られ、更に職員会議に提案されて正式に決定された。そしてこの計画は、PTAの役員会にも提起されたが、当時役員であつた解同光明町支部の執行委員の岡本義一を含めて、その賛成が得られ実施の方向で準備が進められていつた。またこの計画を進めるにあたつては、高田支部長にも事前に相談がなされたが、同支部長は上映そのものには反対せず、ただ父兄を対象にする場合は、事前・事後の指導が難しいので慎重にやつてほしいとの要望がなされた。そこで高田支部長のこの要望を尊重して、父兄を対象として、部落問題についてのアンケート調査をしたり、研究会を行うなどの事前の準備を行つていた。ところが一一月初旬に至り、当時福岡で行われることになつていた全国同和教育研究大会において、大阪同和教育研究協議会の代表として、前述した地区学習会の問題で岸部小学校から配転させられた二名の教員が報告する予定になつていたことに関して、高田支部長から控訴人松田に対して、その二名の教員が報告をするのをやめさせるように求められた。控訴人松田は大阪同和教育研究協議会の問題であつて、自分としては意見をいえる立場にないということで、この申し出を断わつたが、立腹した高田支部長はその問題とは全く無関係な「橋のない川」の上映について、子供にはともかく父兄には絶対に見させないという発言をした。こうした事態の報告を聞いた学校長が翌日、直ちに高田支部長宅を訪問してその真偽を正したが、やはり同じ結果であり、学校長としては実施を強行すると混乱する恐れがあると判断し、父兄への上映を結局中止することとなつた。そしてこのことは、父兄に対する事前・事後の指導が困難なので中止するという形でPTAの役員会に伝えられたが、PTAの役員は、その措置になかなか納得せず、ともかくどのような内容の映画であるかを役員が知るために、役員会として試写会を行うことが提案され、一一月一九日に試写会が行われることになつた。

同日、PTAの役員と全教員が参加して試写会が行われたが、試写が開始されてすぐに、突然高田支部長ら四名のの者が会場に入室し、同支部長が「誰の許可を得てやつているのか。」「差別者出て来い。」などとどなりながら、控訴人松田の服を捕んで廊下に引き出すという事態が起こつた。

そのため当日の試写会は中止せざるを得なくなり、教員は全員、職員室に引揚げて事態の収拾について協議を行つた。その結果、解同光明町支部との間に生じた対立的な関係をそのまま放置すべきではなく、お互いの立場を尊重し合いながら協力しあつていくべきことを教員の側から提案しにいこうということになつた。そして直ちに教員が試写会場にもどり、控訴人松田が代表して右のような提案を行い、その場は一応収拾されたかのようにみえた。ところがその直後に、高田支部長が控訴人松田に対して、「松田君、お前も部落民だつたらいつまでもそれを隠さずに部落民であるということを明らかにして解同の方針に従つてやらんかい。」という発言を行つた。当時控訴人松田が部落出身であるということは、一部の教員しか知らず、大多数の吹田二中の教員は知らなかつたものであり、高田支部長のこのときの発言はまさにそのことを暴露するという形のものであつた。そのため教員側はこの発言を明らかな差別発言と受け取り、その場で高田支部長に抗議を行い、そのため高田支部長らは試写会場を退室してしまつた。

ところが翌二〇日になると、子供の上映もしばらく待つようにとの申入れがなされると同時に、「同和問題の認識について隔絶の相違がある。」として、一二月二日の午後と一方的に日時まで指定して、吹田二中教員全員に対して話合いの申入れがなされた。この申入れに対して職員会議で協議をしたが、その結果この申入れは一連の事態を正しく捕らえずに、学校側を一方的に非難する形のものであつて、内容的に納得しがたいということ、授業のある時間帯を一方的に指定してくるというように手続的にも承服しがたいということで、この申入れには応じないことが全員一致で確認され、一一月二四日学校長から高田支部長に伝えられた。またこうしたなかで、同月三〇日には教員側の要望で市教委との間でこの問題についての話合いが持たれたが、久米同和教育指導室長ら市教委側の態度は、試写会場での高田支部長らの行動はやむをえないものであり、また同支部長の控訴人松田に対する発言は、解同大阪府連に問い合わせたところ差別ではないということなので差別ではないと考える、というように解同側の主張をおおむ返しに述べるだけのものであり、教育委員会として、独自に事態を把握して、評価を加えるという姿勢は全くみられなかつた。

一方、一二月一日に開かれた解同光明町支部の大会では、「吹田第二中学校の一部教師の数々の差別事件」たる決議が採択され、そこでは「橋のない川」の上映を巡る一連の経過について事実を全くわい曲して控訴人松田と同阿部を名指しで差別者として非難し、更に一年半も前に起こつた前述した控訴人小川の非行問題についての報告事件を再び取りあげて同人を差別者として非難している。そして翌二日には、午後一時頃に、解同光明町支部の支部員約四〇名が教員側からすでに当日の話し合いには応じられない旨の回答があつたにもかかわらず、それを無視して吹田二中に押しかけ、教員に対して話合いを求めた。当日は平常どおり授業が予定されていたが、こうした事態のなかで、市教委の指示で授業が中止され、また解同支部員らと話し合うようにとの職務命令が教員に出されたが、教員は、全員、従前の職員会議の結論に従つて話合いに応じず職員室で執務した。その結果、当日は、結局話合いは実現せず、支部員らは引き揚げたが、その際吹教組吹田二中分会より、高田支部長に対して、「橋のない川」上映を巡る一連の事態について、正しい事実経過を再度明らかにしつつ、双方が互いの立場を理解し、尊重しながら真に友好的な提携を回復することを求めた要請書を渡している。

それ以降この問題は特に問題とされることなく経過したが、結局こうした事態のなかで映画「橋のない川」第一部の上映は、父兄のみならず、生徒を対象としたものも実施することができなかつた。しかし教員らは、同和教育の実践を放棄することは許されないとの立場で、これに代わるべきものとして「信太の狐火」という演劇(解同の推せんがなされていたもの)を上映して、その感想文などを書かせるなどの指導を行つた。

以上が映画「橋のない川」試写会妨害事件の経過であるが、ここでも自分らの要求を押しつけるためには、手段を選ばないという高田支部長らの不当な行動が如実に示されている。特に高田支部長らとの事前の相談を行いながら教員やPTAなどが積極的に準備していた上映運動が、全くそれとは無関係な事柄(全国同和教育研究大会での報告者の問題)に端を発した理不尽な横やりのために中止を余儀なくされ、さらにその試写会までもが実力で妨害されるというような事態は、同和教育の在り方などということとは全く無関係な問題として、誰がみても不当な事態といわなければならない。一方控訴人らを含む吹田二中教員がこの間取つた行動は、上映計画の立案にあたつて高田支部長らと事前に相談して、その意見を聞き、彼らの意見を十分に参考にしながら準備をしていつたように、極めて慎重なものであつた。それにもかかわらず、前述したような全く無関係な事柄による不当な横やりによつて上映が中止され、かつ、試写会が実力で妨害され、しかもその席上で控訴人松田に対する差別的発言がなされたのである。こうした事態のなかで解同光明町支部は自らの非を棚にあげて、相手方に屈服を求めようとするような一方的な話合い要求をしてきたが、これに対して吹田二中教員が全員一致して譲歩することなく拒否する態度に出たことについては、公教育の独立、あるいは教員の主体性、独立性の観点から、何ら非難されるべきでないことは明らかであるといわなければならない。

またこうした事態のなかでも、前述したように吹田二中教員が同和教育の実践を放棄せずこれに代わるべき措置を取つたことは、教育に責任を持つものとしては当然のことかもしれないが、当時の吹田二中教員が他から強制されるのではなく、自覚的に同和教育に取り組んでいた姿勢を示すものとして特に指摘されるべきであろう。

カ 補充学習問題(昭和四六年四月~一一月)

前述した地区学習会は、昭和四六年三月まで問題なく進められたが、同年四月に至り解同光明町支部の方から学校側に対して、今後の学習会は地区の子供会が主体的に取り組むような方向にもつていきたいのでしばらく実施を持つてほしい旨の要請がなされた。学校側としてはこの要請を受けて、実施を待ちながら、地区学習委員会(昭和四五年に校内にできた)が中心となつて今後の計画を練つていた。

昭和四六年九月になつて、解同光明町支部より子供の話がまとまつたので、九月二九日の夜に話合いが持たれた。その席上これまでに検討されてきた計画案などが提案されたが、議論はそれを煮詰める方向には発展せず、以外な方向へと進んでしまつた。すなわち、その場に出席していた解同光明町支部の吉田総夫教育対策部長が、これまでの吹田二中の教員は解同との提携が十分ではなかつたので、その点についての是正をしない限り地区学習会をやつても意味がない旨の発言をし、「橋のない川」問題などについて教員側を非難したのである。これに対して教職員側も教員の自主性や主体性の重要性などに触れながら説明や弁明を行つたのであるが、吉田教育対策部長はこうした教員側の発言について、「同和教育を行う教師の主体性は、解放運動に従属すべきだ。」という意見を述べるなどして反論を行い、結局、当日の話合いは平行線のまま地区学習会の実施についても結論をみることなく終わつた。

ところが一〇月一二日になつて、突然解同光明町支部の高田博書記長より当時の同和教育主担者であつた高木教諭に連絡があり、同月一四日の午後七時に解放会館で同和教育や地区学習の基本問題について話合いを行いたいので出席されたい旨の申入れがなされた。翌一〇月一三日に職員会議が開かれてこの申入れを検討したが、その結果、突然日時が指定されて呼び出されるということでは十分実りのある話合いを行うことができないので、とりあえず一四日の話合いは中止して、今後議題や日時を双方で相談しながら話合いの機会を持つようにしたい旨回答することが確認され、その旨校長より支部に伝達された。ところが吹田二中側のこの回答は全く無視され、逆に校長を通じて、「学校側が解同光明町支部の話合い要求を正式に拒否したものと判断する。支部としては予定どおり一四日の話合いを行うので参加する意思のある者は来てほしい。」旨の伝言が伝えられた。その結果、吹田二中においても教師集団の分裂という不幸な事態が引き起され、一四日の話し合いには六名の教員が参加し、他は不参加という事態となつた。

このようにして強行された同日の話合いでは、解同光明町支部の側より「解同との話合いを拒否したような教師に地区学習を任せるわけにはいかない。今後は補充学習という名前で解同の主催で行うことにするので、参加する意思のある者は来てほしい。」旨の説明がなされた。そしてそれ以降は控訴人らを含む吹田二中教員の全体が主体となつて進められていた地区学習は行われなくなり、その代わりに解同光明町支部の主催する補充学習が行われることになつたが、そこへは吹田二中の教員のごく一部の者が参加するのみで、他の多くの教員は参加しないという状況がそれ以降作り出されたのである。

以上が補充学習を巡る問題の経過であるが、こうした経過をみると、控訴人らを含む多くの教員が参加できない方向に仕向けられながら、補充学習なるものが発生していつたことが分る。そしてこの事態は、より端的にいえば、昭和四四年から四五年にかけて地区学習会問題で岸部小学校に対して行われたと同じように、解同光明町支部が教師集団を分裂させることによつて、吹田二中の教育への介入を実現しようとしたものとして評価できよう。

(3) 一連の介入の事態についての総括的評価

ア 原判決は、こうした一連の事態を、その原因や経過などを検討してその是非を判断することなく、またときには事実経過を誤認したうえで、ただ単に吹田二中の教師集団と解同光明町支部との対立関係としてだけ捕らえている。しかもこの表面的な対立関係をもとに、結論的には控訴人らの行動を否定的に評価しているのである。しかしこうした一連の事態のなかでもたらされた対立状態なるものは、決して学校側あるいは教員側からもたらされたものではない。これらは前述した各事件における経過からも明らかなように、いずれも解同光明町支部の不当な要求、あるいは言動(要求自体が不当なものや、要求の仕方が教師の主体性を否定したりあるいは非常識な言動に基づいているなど、方法において不当である場合もある。)によつて作り出されたものであり、その意味では、そのいずれもが教育基本法の基本理念に反するような教育への不当な介入という実質を持つていたものであることを見失つてはならない。

イ また、学校側あるいは教師集団は、こうした一連の事態において、決して形式的で硬直な態度を取らなかつた。解同光明町支部の要求やその方法が極めて不当なものであるのだから、毅然とこれをはねつけることも一つの方法であつたかもしれない。しかし控訴人らを含む二中教師集団は、教育現場に責任を負うものとして、教育現場に混乱をもたらすことを回避するため、できる限り円満な解決を望んで、時には不当な要求ではあつても譲歩するという現実的かつ柔軟な対応を取つてきていることがその特徴として指摘されよう。

ウ 更にこうしたなかで、吹田二中教師集団は、内部での議論は十分にしても、その行動においては校長を含め全員が一致して行動するという対応を取つてきた。例えば前述した各事件においても、最後の補充学習問題を除いて、それまでのすべての事件について控訴人らを含む吹田二中の教師集団は、全員が一致した行動を取つてきた。それぞれの事件では、前述したように解同側の不当な要求や言動に直面して一定の譲歩や妥協をしなければならないようなことが多くあつたが、そうしたなかでは、断固としてその要求をはねつけるべきであるという意見も出されたが、十分な討議を尽くしながら、こうした意見の者も含めて、全員が一致して、解決のための行動を取つてきたのである。ところがこうした教師集団の一致した行動は、解同光明町支部の側にとつては、彼らの教育介入の意図の実現を阻む大きな障害と映つたのである。それゆえこうした彼らの認識を背景として、昭和四六年度以降、異例ともいうべき大幅な人事異動が吹田二中で行われ、昭和四六年度には一〇名、同四七年度には二〇名と大量の転任者(新任を含む)が吹田二中に赴任し、この二年間で同校の約半数の教員が変わるという異常な事態を迎えたのである。そしてこれらの新たに赴任してきた教員の多くが、解同との提携をことさらに強調し、しかも、そうした状態を背景にして、前述した補充学習問題を巡つて、現実に吹田二中の教師集団が分裂させられていつたことからみても、こうした人事異動がこれまでの吹田二中教師集団のまとまりを破壊する意図の下に行われたものであることは明白である。

特に強調したいことは、こうした人事異動が教育委員会の独自の判断でなされたのではなく、解同光明町支部の強い影響力の下になされたということである。このことは、こうした人事異動を経て解同光明町支部による吹田二中教育への介入がいつそう強まつていつたことからも明らかであるが、何よりも本件の発端である誓約書問題が、このことを如実に物語つているといえよう。

すなわち、控訴人服部が解同光明町支部の高田支部長に提出した誓約書には、「私は部落解放同盟大阪府連合会吹田光明町支部の指導と助言のもとに、解放教育に取り組む教師集団と提携して、私自身の課題として、積極的に解放教育にとりくむことを誓約いたします。」と記載されている。一私的団体に対して具体的教育活動についてその団体の指導を受けることを誓約し、その結果、その団体の推せんを得て公立学校の教員として採用されるという事態が、憲法や教育基本法の根本理念である教育の独立に著しく反する不当なものであることは、その団体が、たとえ部落解放のために闘う団体であつても変わりはない(原判決はこうした評価をせず、ただ単に事実のみを認定している。)。また、そのことだけでなく、この誓約書問題では、次の点が見失われてはならない。つまりこの誓約書では、解同光明町支部の指導に従うということと同時に、「解放教育に取り組む教師集団と提携して」解放教育に取り組むことが誓約されている。このことは、当時控訴人服部が、教員として解同光明町支部の意に沿う行動を取ることだけでなく、分裂している教師集団のなかで、特定の一方の側に立つて行動することまでもが期待されていたのである。このことからすれば、こうした誓約書を元に教員の採用がなされていた事態こそ、前述したように、当時の吹田二中の教員人事が、従前の吹田二中の教師集団を分裂させる意図の下に、しかも解同光明町支部の強い影響の下になされていたことは明白である。

エ 次にこの間の事態を正しく評価するために指摘されねばならないことは、昭和四四年以来解同光明町支部によつて吹田二中の教育に対しさまざまな介入がなされてきた際に、解同光明町支部との間に一定の対立状態が作り出されたことはあつたが(もとよりその責任は前述したように解同側にある。)、そのなかでも吹田二中教師集団は同和教育についての具体的実践を放棄することなく、着実にこれを実践して成果を挙げてきたことである。しかもその実践にあたつては、同和地区の住民と密接なつながりを持ち、その要求をできる限り教育の現場に反映させていくという姿勢を維持してきたのである。こうした点はこの間の一連の事態の本質を知るうえで重要である。すなわち、控訴人らを含む吹田二中の教師集団は、同和教育を実践するにあたつて、決して解同光明町支部を含む同和地区の住民との密接なつながり(もとよりこれは教員の自主性や主体性を放棄することを意味するようなものではない)を否定していたわけではなく、また逆に、世間で往々にして見られるように、解同の要求を無視できずやむなく同和教育を実践するという消極的な姿勢ではなく、同和教育の重要性を他からの強制ではなく、教員の課題として自ら自覚し、そのうえで同和教育の実践に責任をもつてあたつていたのである。それだからこそ控訴人らを含む教師集団は、前述したような一連の教育介入がなされていた間も解同光明町支部を含めて同和地区住民の声には十分耳を傾け、その要求をできる限り教育現場に反映しながら、積極的に同和教育を実践していたのである(それゆえに、控訴人らに対する地区住民の信頼は厚く、現に控訴人松田は本件転任処分後も地区の卒業生の結婚について五組も仲人を勤めている)。ただそのなかで解同光明町支部による不当な要求や不当な言動に直面した際に、できるだけの譲歩はしつつも、教育の独立や教員の主体性を維持する最低限の一線を守らねばならないときに限つて、その要求を拒否したために、それを巡つて対立状態が作り出されたにすぎないのである。

(四) 市教委の同和教育に対する態度と解同の教育介入に対する対応。

(1) 解同光明町支部が結成されるまでの間

同和教育に対する市教委の態度は昭和四四年に解同光明町支部が結成される前と後とでは際立つた違いをみせている。解同光明町支部が結成される前は市教委は同和教育に対してその重要性を自覚することなく、市教委としての主体的な対応はほとんどなかつたといつてよい状況にあつた。それゆえ吹田市内における同和教育の研究や具体的実践は、すべて控訴人らを含む現場の教員らの自主的な活動に依存されており、市教委はこれら現場教員の同和教育に対する取組を全面的に支持し、また積極的に評価していたのである。

市教委のこうした態度を示す端的な例は、前述した吹同教の結成経過とその後の活動にも現われている。すなわち、市教委は当時の解同吹田支部の要求を受けて、吹田市に同和教育の研究組織を作ることにしたが、自ら同和教育に対する明確な方針を持ちえないため、それを発足させることができず、当時現場で同和教育の研究と実践を行つていた控訴人松田らにこれを全面的に依頼して、昭和三七年五月に吹同教を発足させるに至つている。また発足後も、吹同教の活動は控訴人らを含む現場の教員に全面的に依存され、また市教委はこうした活動を積極的に評価していたのである。

また市教委と現場の教員との間のこうした関係は、昭和四三年五月に吹田二中の一教員が差別的発言を行つた際に、市教委としては対処の仕方が分らず、控訴人松田らにそれを聞きにくるといつたような状態であつたことからも明らかである。また更に昭和四四年一〇月には、市教委の指導主事の部落に対する差別的発言が問題とされた際、市教委は、教職員組合の吹田二中分会に対して回答書を送つているが、そのなかでも市教委は吹田二中の教職員が同和教育の推進に努力していることに敬意を表明して、市教委としても同和教育の推進にいつそうまい進していく決意を表明しているほどである。

(2) 解同光明町支部結成後の対応の変化

前述したような経過で昭和四四年に解同光明町支部が結成されたが、それ以降の市教委の同和教育に対する態度は全くひよう変していつた。その特徴は同和教育についての主体的な対応が依然としてなされなかつた点では従前と同じであつたが、今度は解同光明町支部の要求であれば、その中味の是非について自ら主体的に判断することを全くせずに、これをそのまま現場の教員に押しつけてくるという態度に終始するようになつたのである。同年以降の解同光明町支部による吹田二中教育へのさまざまな介入に際して、市教委の取つた次のような対応の数々をみれば、このことは一層明白になるであろう。

ア 同年四月ごろから解同光明町支部の高田支部長より教職員組合の吹田二中分会に対して、矢田問題を差別事件である旨決議するよう要求がなされたが、その際高田支部長は市教委に出向いて、市教委の手で分会責任者らを呼び出させ、指導主事らの面前で右のような決議をするよう求めたこともあつた。

本来であれば、労働組合の決議の問題であるのだから市教委としては介入すべきでないにもかかわらず、市教委はこうした際にも、高田支部長に言われるがままに分会責任者を呼び出したり、あるいはその面前で行われる決議要求について、その要求を受け入れるようにすすめるような状態であつた。

イ 同年六月から翌四五年一月ごろにかけて起こつた地区学習会問題でも、市教委の同様の対応が数多くあつた。

まず市教委は解同光明町支部よりの地区学習会の要求に対しては、地区学習会の中味をどのようにするかということについてはすべて教職員組合や控訴人らを含む現場教員に一任してしまい、ただ解同の要求を実現するという結論だけを重視するという態度に終始していた。そして昭和四四年一二月一二日に、控訴人松田が解同北摂ブロツクの役員会の席上に呼び出されて糾弾通告を受けた際も、一諸に呼び出された阿古指導課長が高田支部長より教員を糾弾会に出席させるために職務命令を出すよう求められたが、同課長はこれをその場で了承しているというように、全く高田支部長の言いなりになつていたのである(なお同課長はその席を去るや否や控訴人松田に対して自分の行動を謝罪するという全く情ない有様であつた。)。

更にこの地区学習会の問題を巡つては、昭和四五年一月二九日に岸部小学校において解同の支部員が教員に対して暴力を振るつて傷害を負わせるという事件が発生して問題となつたが、その際に市教委が発表した見解においても、非はすべて教員側にあるとし、傷害事件についてはそれなりの背景があるとして、事実上暴力を容認し、「解同」の暴力行動に対する批判が一かけらもみられないという恐るべき無節操ぶりを示している。

ウ 更に昭和四五年五月に吹田市の同和教育基本方針が発表されているが、その制定経過も極めて不明朗なものであつた。

同和教育に関する基本方針については、昭和三九年頃から控訴人らを含む現場の教員から、市教委に対してこれを明確にするよう求めていた。ところが市教委はいつこうにこれを明確にすることをしてこなかつたのであるが、昭和四五年五月になつて突然基本方針が一方的に発表された。それまで同和教育の研究や実践を全面的に任されていた現場の教員たちには全く寝耳に水の話であり、その方針の中に解同光明町支部との連携がうたわれていたことからしても、この方針が現場の教員をつんぼさ敷において解同とのみ協議して作成されたものであることは明白である。

なお、この解同という特定の運動団体との提携をうたつた方針は、全国的にみても吹田市以外に例はなく、その不当性は各界より強く指摘されているところである。それゆえ被控訴人すらも、これを好ましくないとして、その是正を市教委へ指導しているという事実を付言しておく。

エ 次に昭和四五年一一月に映画「橋のない川」の試写会が高田支部長らによつて実力で妨害され、更にその席上高田支部長より控訴人松田に対して差別的発言がなされるという事件が起こつたが、この事件を巡る一連の事態の中で、一一月三〇日に教員と市教委との間で話合いが持たれたが、その際の市教委側の対応は、高田支部長らが試写会を妨害した行動は差別に対する行動としてやむを得ないものであり、また高田支部長の発言についても、解同大阪府連に問い合わせたところ差別ではないということなので、市教委としても差別発言とは考えないというように、自ら主体的に事の是非を判断するという姿勢を放棄して、ただ解同側の主張をおおむ返しに述べるだけであつた。

またこの事件では、一二月二日に解同側から教員側に対して話合いなるものが強要されたが、その際も市教委は校長に職務命令を出させてこれに応じさせようとするなど、市教委はまさに解同光明町支部の下請機関に成り下がつてしまつていた。

オ 毎年、年度初めの四月に市教委から各学校に「学校教育に関する要望事項」が交付されるが、そのなかにはいつも「同和教育の推進」という抽象的な項目が入つていた。昭和四六年の四月にも同様の要望事項があつたことから、吹田二中では職員会議でこの点の議論を行い、特に昭和四四年以来解同光明町支部による教育への介入によつて教育現場に一定の問題が生じているので、その点について市教委の認識を求め、しかるべき対策を講じてもらうために、吹田二中の教員と市教委との話合いを求めることになつた。そして吹田二中職員会議の名で市教委に対して話し合いが求められたが、市教委はいつこうにこれに応じず、結局話合いが求められることなく経過し、その間に再び解同光明町支部と吹田二中教員との間には、補充学習問題を巡つて対立関係が作り出され、同年一一月から解同光明町支部主催の補充学習会が一方的に強行され、多数の教員がそれに参加できない方向へと仕向けられていつた。ところが市教委はこうした事態が起こつてから始めて、吹田二中に赴いて教員らに対して補充学習会への参加を求めてきたのである。こうした際の市教委側の態度はただ補充学習会への参加を求めるだけであり、教員側が従前の経過を説明して市教委の理解を求めても、教員側の言い分を否定もせず、また事の是非を主体的に判断することもせず、ただひたすらに解同との連携を強調して、補充学習会への参加を求めるだけであつた。

こうした市教委の対応は、翌昭和四七年一月二八日に当時の藪教育長が吹田二中に来校したときも同じであり、同教育長は、話合いの冒頭、四月以来の話合いの要求に応じられなかつたことを謝罪し(この点は当審において藪証人は認めている)、ひたすら補充学習会への参加を求めるにすぎなかつた。なお被控訴人側はこの話合いの際に控訴人らが同和教育基本方針に反対し、これを拒否する旨述べたと主張しているが、そのような事実は全くない。控訴人らは、市教委側がしきりに同教育方針にある「解同」との連携を強調したので、その際にこの方針が現場の教員の意を聞かずに一方的に作成されたという経過を指摘したにすぎない。むしろこの話合いの席上では、控訴人らを含む教員側が「橋のない川」事件など具体的な問題を挙げながら、市教委の態度、例えば差別かどうかは「解同」大阪府連が決めるというような主体性のない対応を正すよう求めても藪教育長らは全くこれに答えられずにいたような状況であつた。

以上の経過よりすれば、当時の市教委が同和教育問題あるいは「解同」との関係について、自らの主体的な見解を全く持たずに、ただひたすら「解同」光明町支部の要求を、そのまま無批判的に教育現場に押しつけていたにすぎないことは明らかであろう。

カ 吹田二中では昭和四五、六年頃から校舎の建替えが具体化されつつあつた。こうしたなかで控訴人らを含む吹田二中の教員は、学校としてあるいは教職員組合として、市教委に対して校舎建設に関する要望を提出してきた。ところが昭和四六年七月に至り、突然主として校舎建設の問題について市教委と交渉するための組織として「二中をよくする会」なるものが作られたことが発表された。この組織は解同光明町支部とそれの下部組織である教育を守る会、更に吹田二中当局とPTAによつて構成されることとされていたが、吹田二中の教員には全く事前の相談もなく、一方的に作られたものである。そしてこの組織ができてからは、市教委は、校舎建設の要望についてはこの組織を通じなければ誰からであつても受付けをしないという態度(いわゆる窓口一本化と同じものである)を取るようになり、同年八月に吹教組吹田二中分会が労働組合として市教委へ校舎改善の要望を提出したが、その要望書を受理することすらも拒否するという状態であつた。

キ 更に市教委は、昭和四七年二月一六日付で、「部落解放はみんなの課題」と題するプリント(乙第七号証)を作成し、これを生徒を通じて吹田二中の父兄に配付している。この文書には、吹田高校での出来事と並んで吹田二中における「差別事件」なるものが記載され、しかも「学校の中でも正しい指導がなされていなかつた。」ということまでもが指摘されていた。しかしこれは当の吹田二中においては、この事件について十分な議論がまだなされていなかつたにもかかわらず、市教委が具体的教育実践に責任を負うべき学校当局を無視して、右のような一方的な見解を表明し、しかもそれを父兄に配付するといういわば越権的な行動に出たわけである。こうした市教委の行動がなされた背景には、解同光明町支部が当時この事件を差別事件としてとり上げ、これを口実にして控訴人らに対する攻撃を行おうとしていたということがあるのである(つまり吹田二中の生徒がこうした差別事件を起こしたのは教員の責任であるとして攻撃のほこ先を控訴人らに向けようとしていたのである。)。こうした点をみても、当時の市教委がいかに解同光明町支部の意向に沿つてこれに追随していたかが分るといえよう。

ク 最後に市教委の前述したような態度、つまり同和教育について自らその重要性を自覚して主体的に対応するのではなく、ただひたすらにその内容の是非を問うことなく解同光明町支部の要求を教育現場に押しつけようとする態度は、次の事実からしても明らかであることを指摘しておく。すなわち、吹田市にはいわゆる同和地区は光明町のみではなく他に二カ所ある(北野町と新町)。このうち北野町の生徒は豊津第一小学校と豊津中学に通学し、新町の生徒は吹田第三小学校と吹田第五中学校に通学している。そしてこれらの学校は被控訴人らがいう同和教育推進校として同和教育主担者が配置されている。本来であればこれらの学校についても、吹田市の同和教育基本方針が適用されて、解同との連携が求められるはずである。ところがこれらの地域には解同の組織がなく、しかも地区の住民が解同が教育に対して行つている行動に批判的であることもあつて、市教委からは学校当局あるいは教員に対して何の指導もなされていない。例えば本件で控訴人らが転任処分の理由とされている副読本「にんげん」についても、毎年それが生徒たちに配付されずに学校の宿直室に山積みにされていても何ら問題にもされていない。本件で職員会議の席上、単に配付について批判的な意見を述べただけで、それが配転の理由とされていることと比べて極めて対照的である(もとよりこうした意見を述べること自体、副読本の選択権限が現場の教員にあることからして何ら非難されるべきではないし、また本件では実際にはこれは生徒たちに配付されているのである。)。こうしたことをみても、市教委のこれまで控訴人らを含む吹田二中教師集団に取つてきた対応が、決して同和教育に関する市教委なりの独自の主体的な立場あるいは見解に基づいてなされたものではなく、ただ単に「解同」光明町支部あるいはその支部長である高田登美雄の意向にひたすらに追随してきたものにすぎないことは明白であるといわなければならない。

5  昭和四七年六月二六日以降の吹田二中の状況とその原因及び責任

(一) 昭和四七年度人事の特徴と六月二六日に至る経過

(1) 昭和四七年度人事の特徴とその背景

前述のような解同の吹田二中に対する教育介入とこれに呼応した吹田市教委の追随姿勢の下で、昭和四七年度人事は、校長、教頭を含めて九名もの教員が吹田二中を去り、新校長麻田を含めて二〇名もの転入教師を迎えることになつた。うち新任教師が九名というように転入教師も新任教師も多いことが特徴的である。しかも、服部及び森本の解同に対する解放教育に取り組むにあたつては解同光明町支部の指導と助言に従い解放教育に取り組む教師集団と提携して行うとの誓約書の提出、解同支部長の誓約書読み上げ後に市教委の採用という事態、更に誓約書こそ取らなかつたが三月二七日(辞令交付直前)には、吹田二中、岸部小への新任教師らが市教委に集められて、解同高田支部長から誓約書同様の趣旨の内容のことが言いくるめられた事実、更に四月一日及び三日に大阪市の日の出解放会館に新転入者を集めて行われた「松田同和主担不適任」、「従来から吹田二中にいる教師の品定め」などの事態は、およそ教員人事、学校運営の常識では考えられない事態であつた。それらは市教委がいかに解同に追随する教師集団を送り込むことによつて吹田二中の従来からの教師集団を分裂させ、彼らの言いなりになる吹田二中を作り出すことに狂奔したかを如実に示している。

(2) 学年度早々からの職員会議の異常事態

四月八日の入学式、一〇日の始業式を前にして持たれた春休み中の三回の職員会議は、多数の新しい新転入の人たちを迎えて吹田二中の教育をより充実させようという控訴人服部を除く従来からの教師である控訴人らの期待に反して、校務分掌すら決めることができないという異常な事態となつた。それは端的にいえば一つは同和教育主担者を巡る問題であり、いま一つは促進学級設置を巡る問題である。これらを巡る異常事態の中で校務分掌すら決め得なかつたことであり、今一つは補充学習への参加の問題である。これらはいずれも切離し難く結びついている問題であり、集団で討議することを不可能ならしめ、ことは同和教育にとどまらず、すべての教育活動を無秩序状態に陥れるものであつたが、問題を正しく理解するために一応は項を分けて経過を述べる。

ア 同和教育主担者の問題

同和教育主担者は教員全体とよく結びつきつつ同和教育を推進している重責であり、同主担者は従来から授業を持たずその任務に専念するために旧年度中の職員会議で決定することとされていた。主担者が決定すると主担者の教科の教員の補充を必要とするからである。

昭和四七年度を迎えるにあたつても、三月一五日の職員会議で同和主担者の選出が行われ、控訴人松田が選挙で選ばれていた。

ところが四月四日新年度最初の職員会議で(この日は次に述べる促進学級設置問題で大半の時間が費されたが。)、前述のような経過で新たに吹田二中に入つてきた教師らからこの同和主担者の決定について異議が出された。これは秘密会議での予定の行動だつたわけであるが、翌五日の職員会議では控訴人ら(服部を除く)を含む従来からの二中教師らの道理を尽した主張には全く耳を貸さず、あくまでも右決定の白紙撤回を迫るというものであつた。右のような動きの背景に解同高田支部長の「同和主担者選任に関する要望書」があつたことはいうまでもない。白紙撤回を迫る教師らの主張は恥も外聞もはばからず、無理を承知で、従来からの二中教師らを口汚くののしりつつその実現を迫ろうとするものであつた。その柄の悪さと控訴人ら従来からの二中教師の誠実な発言のコントラストが、かえつて誓約書すら提出している控訴人服部を含む新任教師をして、解同や解同べつたりの教師らの意に反して保留の意見を出さざるを得なくなるほどのものだつたのである。議論は平行線をたどつたが、同和主担者を決めないことには他の校務分掌が決められないということもあつて、ようやく旧年度の決定を尊重するか、白紙撤回して決め直すかで採決が取られた。結果は二四対一七で旧年度決定を尊重するという結論が出たのである。さすがにその結論に対しては誰からも異議は出ず、麻田新校長もこれを認めたのである。

ところが同月七日、入学式の前日の職員会議の冒頭、麻田校長から五日の決定は認められない、同和教育主担者は村田、同副主担者に森本、尾松にしたいという唐突で一方的な発言がなされた。このような職員会議無視の校長の暴挙に対してその理由を問い正す発言が相次いだが、校長はそれには一切口を閉じたままで会議は全く進展せず、すべての校務分掌が決まらぬまま新年度を迎えるという異常な年度明けとなつたのである。

右のような職員会議の決定を無視した校長の一方的任命といい、従来になかつた副主担という任務の導入と一方的任命といい、およそ学校運営上考えられぬ異常なことであつたが、それには服部本人の供述で明らかとなつたような高田支部長の校長に対する圧力(リハーサルまでやらせたという驚くべき事態)という異常な事態があつたのである。

その後この同和教育主担者問題は長期にわたつて解決を見ず、学年所属・学級担任・教科担当時間数を決めただけで他の校務分掌は一切決めることもできずに推移していくのである。村田、尾松、森本という一方的な任命を受けた教師らすら、この四月七日の職員会議でも一言もしやべらなかつたばかりか、授業時間数も平均並みに担当し、六月二〇日ごろまでは主担・副主担として公然と振舞えない状態が続いたが、これはいかにこの校長の一方的任命が無茶苦茶なものであつたかを如実に示しているといえよう。

もつとも、二中の職員会議とは全くかけ離れた場所、例えば四月二七日の解放会館における光明町教育を守る会との話合いなどでは、村田は同和教育主担者らしき一定の役割を果たしており、この問題の本質を反映しているということができよう。

イ 促進学級設置の問題

被控訴人側の主張や当時の市教委藪教育長の証言などでは、昭和四七年度二学期から吹田二中で促進学級を設置することは早くから決まつており、そのために促進学級担当者として控訴人服部を含む五名の教師が吹田二中への新転任がされていたというのである。

しかしながらそれをやるとすればその担い手となることになる吹田二中の職員会議では、全くそのような論議はなされていなかつたのである。昭和四六年度中において、一方的に作られた二中をよくする会が職員会議の討議とは無関係に教委との間で新校舎建設のプランの協議を進めていつたのであるが、その新校舎の青写真の中に促進学級という名の教室の設計プランが示されており、そのことで始めて二中の教師らはその設置の問題があることを知つたのである。その時までに促進学級なるものについて一度も職員会議の議題になることもなかつたし、まして促進学級の教室配置等の要求をしたこともなかつた。そして昭和四七年一月二八日に行われた市教委(教育長はじめ指導主事数名が出席)と二中教師との話合いの席でも、久米同和教育指導室長は促進学級設置を決して押しつけるものではない。と明確に述べていたのである。

ところが三月二一日の職員会議で教頭の口から、突然、促進学級担当者として五名の加配が予定されていることが明らかにされたのである。この問題については、三月二四日の職員会議で討議がなされた。そこではこの促進学級というものが解同の要求で作られたものであり、解同の運動によつてなされるに至つたものである一方、学校の教育現場では一度の論議すらされていないという経過上の問題点、十分な教師の中での論議も経ない中で現場の教師として安易に受け入れられない(教育を進める上での論議が欠けている)という内容上の問題点が論議された。その結果促進学級の担当者はあくまで人数(枠)としての加配と位置づけ、それぞれの教科を担当してもらうこと、促進学級担当者と市教委から予定されて赴任してくる教師らには個人的に責任を負わせることのないよう職員全体が責任を持つて対処することを全員で確認した。校長もこの職員会議の決定に従つて責任を持つて処理することを約束していたのである。

このような経過の中で、新年度最初に開かれた四月四日の職員会議では、麻田新校長から五名の教師につき促進学級担当者として赴任してきたので、促進学級を行うという前提で一学期の間は調査・研究にあたつてもらうという旨の報告と五名の紹介がなされたのである。このことが大問題として論議になつたことはいうまでもない。

その中味は、一つは経過の問題であり、二つには内容の問題である。特にこの日には始めて市教委の構想が示される中で、教育にとつて内容的な問題が深く討議された。経過の問題は三月二四日のそれと重なるので省略するが、内容の問題として議論になつたのは次のような問題である。

まず第一は、光明町の生徒を授業中に連れ出して別の教室で指導するという市教委の構想ではその子らの学力の向上になり得るかということである。学力の問題も、仲間づくりや学級集団づくりの問題と切り離しえない関係にあり、教育はそのために不可欠であることは全国的な同和教育の長い歴史の中で確かめられてきた教訓であること、ところがクラスの仲間と切り離して別教室で指導するということは、むしろ仲間作りを阻害するという指摘である。しかもそういう抽出促進で学力が高まつたという成果は実証されていないという指摘である。解同追随の姿勢をあらわにする教師らからは、促進学級で学力が高まれば原学級にもどすので問題はないと主張したが、原学級での授業がどんどん進行する中でそんなことはあり得ない、むしろ困難になるという議論がなされた。

また促進学級担当予定者として赴任してきたうち、二人は新任、二人は小学校からの転入、中学からの転入者は一人というように、吹田二中の状況を全く知らない、しかも中学校の教育には新人と言つてよい者を主体に五名の担当者を予定するという市教委の安易な決め方にも問題があり、そのことについても議論が交わされた。

何が何でも促進学級を設置しようという教師たちの発言は、「解同の要求で勝ち取られたものだからやるべきだ。」という主体性のない発言と従来からの二中教師集団に対するののしりに終始した。

四日の職員会議では、このような論議を経て、最終的には校長も含め全員一致の結論として、促進学級の設置は前提とせず、底辺の子どもらの学力を保障していく手立てを検討する委員会を設置する、五名の加配教員はこの委員会に入る、しかし教科の授業は受け持つてもらう、委員会は校務分掌の一環として後日構成するということを決定した。

右のように、吹田二中における正式決定では、促進学級の設置そのものが保留とされていたのである。

その後にひそかに開かれていた促進学級担当者会議(控訴人服部も途中まで出席)なるものは、職員会議の議を経たものではなく、学校全体のものでなかつたことは右の職員会議決定からして明らかである。そのことは、学校として教育に責任を負うという教育本来の原則からみて根本的な問題を含み、真に子どもらのためになり得ないものであることを意味している。四月四日以降、前述の同和教育主担者問題もあつて、校務分掌すら決め得ない状況が続く中で、この促進学級の問題(検討する委員会の問題)も討議することができずに推移したのが真相である。しかるに市教委はこのような経過を全く無視して控訴人服部に対して促進学級設置、担当者たることを前提とした指導しか考えようとせず、原判決もまた右のような二中での討議経過を無視してしまつているのである。

ウ 補充学習の問題

補充学習は、5に述べたような経過で解同主催に移行していつたものであるが、教師の主体性を否定し解同への従属をもたらすこの補充学習に参加する教師が昭和四七年度においても少なかつたことは当然である。

昭和四七年に入つてから、この補充学習についての職員会議での討議は全くない。すなわち、解同主催のそれに一部教師が私的に参加しているという状況にしかなく、府教委や藪証人の証言ですら教師の本務ではないといわざるを得ないばかりでなく、吹田二中の学校としての取組にもおよそなつていなかつたのである。

右の状況のもとで、控訴人服部が自らの判断で参加、不参加を決定するのは当然のことといわなければならない。

(3) 一連の経過の背景と問題点

以上みてきたような誓約書などにみられる異常人事・同和主担者問題・促進学級問題・補充学習の問題などに端を発して校務分掌すら決め得ないことにみられる校務運営の異常な事態は、その背景に解同の教育介入に対して批判的で彼らの言いなりにならない従来からの教師集団の意思を排除して、彼らの意のままに学校運営をさせようとする解同の意思と行動によつて引き起こされたものである。それが職場における従来の慣行や決定を無視し、非民主的、非教育的な現象として現われたものに外ならない。これは解同べつたりの市教委と校長を始め意図的に送り込まれた教師たちによる、教育とはもはや無縁の解同支配の学校の現出をもくろんだものとしかいいようのないものであつた。

(二) 六月二六日以降の異常な事態とその原因及び責任

(1) 控訴人服部に対する攻撃

(一)でも述べてきたように、控訴人服部は異常な人事の典型である解同への誓約書提出、解同の市教委の推せんを経て吹田二中教員として採用されたのであつたが、その当時同控訴人はそのことの意味をそれほど重大に考えていなかつたのである。しかし当審における同控訴人の供述でますます明らかにされたように、三月二七日の二中、岸部小新任教師らに対する久米同対室長及び解同高田支部長の話、四月一日、三日の日の出会館での学習会(市教委が二中の新任だけは一般の新任研修には行かなくてよいと指示した上で開かれたもの)での吉岡らの話を経てその後に開かれた二中職員会議での一連の討論の状況は控訴人服部に対して、控訴人松田、増成、小川、阿部を含む従来から二中で教育に取り組んできた教師らと、これを口汚くののしる新転任者を中心とする教師らの姿の違いを鋭く見せつけることによつて、控訴人四名を含む従来からの教師らに対して強い共鳴を与えることとなつた。その結果、同控訴人は四月五日の職員会議での同和主担者問題で保留の態度を取ることになつた。この同控訴人の採決時の態度については、同七日夜森本から五日の夜解同支部長から同人に電話があり、同控訴人の右態度を理由に懲戒免職にしてやろうかなどと言われたという話を聞かされ、同控訴人は誓約書を書いたことが重大な誤りであることを痛感するに至つた。

しかし同控訴人は内心では深く悩みながらも、授業時間数も少ないこと、学力向上の検討委員会が正式に発足していないけれどもそのメンバーに入ることは職員会議で予定されていたこともあつて、四月一〇日には森本の召集によつて開かれた促進会議なるものには出席し、以後その会議や資料集めには参加してきたのである。四月二六日の光明町子ども会全体会にも出席し、同二七日の二中教師と光明町父母との話合いにも出席し、その後の促進会議や資料集めにも参加してきた。しかし二七日の右話合いでも同僚教師らを親の前で平然とののしり、職員会議で決まつていないことを平気で口にする教師ら(校長も含めてである)の姿を見て、これでいいのだろうかという感をいつそう深くしながらも、それに対して疑問や意見を出すまでは踏ん切れず、悩みを抱きつつずるずると促進会議にも参加してきたのであるが、五月一八日、森本から補充学習の時間割を見せられて参加要請を受けた機会に、これを断わることによつて誓約書をようやくふつ切るに至つた。それはそれまでの職員会議や促進会議等々の一連の経過の中で感じてきたことからようやく到達してきた教師としてのあるべき態度の自覚からであつた。それ以降、同控訴人は促進会議にも欠席がちとなり、やかましく参加を呼びかけられ、追及されるようになつた。これと呼応して解同に追随している学童保育指導員から六月二日、七日、一〇日と話合いを求められたがこれに欠席、一〇日には光明町教育を守る会から話合いの要求を受けたが、これにも応じないで欠席した。光明町教育を守る会は解同の指導を受けているその下部組織であり、補充学習や促進学級についての同控訴人の態度を誓約書に反しているとしてこれを問題とし、その態度の変更を迫ろうとするものであつた。だからこそ同控訴人は控訴人松田ら二中の教育を大事にしてきた従来からの教師たちから教えられた教育のあるべき原則、あるべき教師の姿勢を守ろうとしてこれらに応じなかつたのである。

解同に指導された教育を守る会は六月一〇日の話合いに同控訴人が欠席すると、深夜に藪教育長を解放会館に呼び出し、同控訴人を話合いの場に出席させることを約束させ、これを受けて市教委は校長を通じて同控訴人を同和教育指導室に出頭するように求めてきた。話の内容も促進学級と補充学習の二点であり、話の成行きは教育を守る会の意を受けて、同控訴人の翻意を求めるものであることが明らかだつたので、同控訴人は、せつかくふつ切つた誓約書の立場に引きもどされることを避け、教師としての良心を失いたくないという気持から六月一四日、一五日、二〇日、二三日と市教委の呼出しに応じなかつたのである。

この同控訴人の態度は、(一)及び今までに述べてきた四月以来の経過とその背景に鑑み、正当なものであつたといわなければならない。そして、市教委が促進学級を巡る職員会議の経過や四六年来の補充学習を巡る経過を何ら顧みることなく、教育を守る会との話合いに応じさせれば足れりとする安易で、主体性の欠如した非教育的措置をとつたことこそ非難されなければならない。

(2) 六月二六日以降の教育現場の無秩序状態

六月二六日の早朝、控訴人服部に話合いを求めると称して解同光明町支部員ら百数十名が吹田二中に押しかけてきた。以来授業が全くできない状態が続くとか、生徒の面前で教員が公然と暴行を受けるということが相次ぐなど、およそ学校という教育現場では信じ難いような状態が七月八日頃まで一〇日以上にわたつて続いたのである。その間授業の妨害・中止は、二中の授業全体が中止させられただけでも、六月二六日の午後、二七日の午前・午後、二八日の午後、二九日の午後、七月五日の午後の一四時頃に及び、控訴人服部、同阿部ら特定の教員の授業が妨害された(これには関大解放研の学生や光明町の子どもらも妨害に加わつている。)のも連日にわたつている。これと平行して控訴人服部に対する六月二六日から二七日にかけてのつるし上げ・連行・監禁の暴挙を皮切りにして、同阿部に対する一連の蛮行(二中全生徒に対してとりわけ鮮烈な印象を与えたのは六月二九日の全校討論集会の場における控訴人阿部に対する解同高田支部長らの暴行であり、全生徒の面前におけるかかる暴挙は、その後に解同が何の非難を受けることなく、控訴人らが本件転任処分を受けるに及んで生徒らの胸にいつそう暗い影を落すことになつた。)が相次いだのである。この間荊冠旗が正面に掲げられ、職員会議も正常には運営できず、職員室で多くの職員がつるし上げを受けるという事態もしばしばであつた。

(3) その原因及び責任

このような無秩序状態が、解同光明町支部によつて引き起こされたことは、誰の目にも明らかなことであり、その責任が同解同支部にあることも当然である。

が、それと同時に、このような事態が一〇日以上にわたつて繰りひろげられたのは、校長や市教委が、このような同解同支部の暴挙に対して毅然とした態度で彼らの校外への退去を要求するということを怠り、彼らのなすがままに任せたことがあるからである。この点につき、当審で藪証人(教育長)は、授業の阻害になるからとにかく動員はやめてほしいと「何回も」「お願い」したと弁明しているが、右証言でも端的に出てくるように、かかる理不尽な事態についてすらお願いにとどまつていること、誓約書の問題について未だに個人的な問題だと見解を表明することを避け、政党・労組に対する誓約書だと間違つていると言いながら解同に対してのそれについてだと間違つているとはいえないような姿勢であることからして、市教委や校長が毅然たる措置を取らなかつたことは明らかである。

それは六月二六日以降の事態に先立ち、二中への大挙動員を決定した六月二四日の教育を守る会の決議を知りながら、これには何の手立ても加えずにむしろこれを容認していた事実や、六月二六日以降の事態の中でも、市教委関係者や校長は前記のような監禁・暴行・授業妨害を現認しながら何らこれを止めようとせず、むしろ積極的に彼らの授業妨害に加担する行動を取つた事実によつて裏づけられるところである。更に七月六日の「真の解放教育推進宣言」(ここでは解同の暴挙に対する批判的姿勢は全く欠けており、「今回の事件を通して、部落差別を許さず立ち向かう学級集団、生徒集団が形成されてきた。なかんずく、光明町子ども会のめざましい成長に拍手を送る。」と記されている。)に校長も署名し、七月一〇日に市教委が校区に配布した「吹田第二中学校の問題について」でも、解同の暴挙に対する批判が全く欠落していることでも、いつそう如実に裏づけられるところである。

以上みてきたようにかかる学校における無秩序状態の原因及び責任が解同光明町支部とこれを容認、助長、追随した市教委にあることは明らかである。

(4) 無秩序状態を克服した父母・市民の解同・市教委に対する批判

このような状態が克服され、すなわち解同がそれまでのような動員をやめ、学校が正常に復したのは何によるものであつたのか。

原判決は、容易に事態の収拾の目途が立たなかつたのが、七月六日に二中職員約三〇名と解同光明町支部との話し合いが持たれ、これに参加した教職員が自己批判し、前記「真の解放教育推進宣言」を採択・署名したのを契機にようやく事態収拾の方向に進み、翌七日以降、解同光明町支部員も二中へ来なくなり、一応平常に戻り、授業も行われるようになつたと認定しているが、これは事実をみない、証拠に基づかない独断である。当審において藪証人が、この点について、解同自身も自粛するに至つたこと、解同も含めて、やはり子どもの学習というものについて一日も早く正常にもどすべきであるとの一つの共通理解が生まれたと証言したことにもみられるように、解同が自粛せざるを得ない状況が生まれてきたのである。そしてその背後には父母・卒業生を始め、広範な市民等から解同の暴挙に対する批判が高まつてきたという厳然たる事実がある。かかる事態の経過の本質を看過することは許されない。

六月二六日に始まつた一連の吹田二中における無秩序状態は、父母、市民に知れわたつていつた。

六月二八日のPTA総会には、かつてない多数の父母が参加したが、解同高田支部長らのあまりにもひどい発言妨害や悪罵に接して事の本質を知り、これに抗議して多数の父母はいつせいに席を立つて退場し、翌二九日に緊急に開かれた市職労などの呼びかけによる吹田二中問題の真相を知る会には、二中父母や多くの市民・教師約三〇〇名が参加し、こうした解同の教育介入を批判し、学校の正常化を要請していくため、この会を組織として継続し、真相をひろめ、その輪を拡大していくことを決めた。

父母のレベルでは、六月三〇日頃から教師に対して事態を説明に来てほしいとの要請があちこちから出されてきた。控訴人らを含む従来からの吹田二中の教師らは、二人一組でおおむね一〇数名の父母の集まりに参加していつたが、父母の反応は控訴人服部に対しては一部に約束を守るべきだという意見も出たが、その余の控訴人らを含め他の教師に対する批判は全くなく、解同が学校に押しかけて混乱させているのは困る、とにかく解同の動員をやめるべきだという点で一致していた。そして、父母が学校へ直接にその状況を見に来たり、市教委や校長に正常化を申し入れるという行動が行われるようになつた。PTA会長であつた原審寺浦証人の証言や、原・当審における藪教育長の証言によつても、このように解同のやり方を批判し、市教委の責任で学校を早く正常化するように求める声が強かつたことを認めている(ただPTAの一部役員などに解同光明町支部に迎合的な者もおり、PTAがPTAとして市教委に毅然たる姿勢を取り得なかつたことは否めない。)。

父母・市民にとどまらず、良心的教師らや、教職員組合も事態を重視して取組を展開した。

府高教組ではいち早く二中の自主的な教師集団を激励し、市教委及び麻田校長に対する抗議を行つた。

七月四日には大教組の中央委員会でも事態を重視し、調査団の派遣を決め、同月六日大教組調査団は吹教組及び吹田二中を訪問したが、二中では高田支部長が、「ここは闘争本部や。」と調査を妨害したため調査できなかつたが、同月一〇日の大教組単組代表者会議では、調査団の報告を受けて調査を続けることを確認の上、速やかに正常な授業ができるようにする、教育委員会が処分や人事異動などで解決することに反対する、ことなどを決めるなど、解同のやり方と教育委員会の姿勢に対して厳しい批判の態度を確認した。この間七月四日には、かねてより自主的民主的な立場での教育を目指して運動してきた吹田市民主教育研究会定期総会は解同高田支部長らの暴力による教育支配を許さず吹田二中の自主的な教師集団を支持する決議を採択し、その運動の先頭に立つことを宣言している。

解同光明町支部が七月一〇日からそれまでの大量動員をやめたのも、このような父母を始め吹田市民から、府下にも広がり始めた府民・教師らの解同批判の高まりの反映であつたのである。

(5) 異常事態下での控訴人らの対応について

被控訴人は、控訴人服部はかかる混乱の原因を作り、その余の控訴人らも解同との話合い勧告を拒否し、服部の言動を支持し、混乱をいつそう助長したと繰り返し主張し、その主張をエスカレートしている。そして原判決も控訴人服部を除く四名の控訴人らが服部の言動を支持しいつそう混乱を助長した、あるいは増大深刻化したと認定している。しかし右の主張や事実認定は全く誤つている。まず控訴人服部に関してであるが、確かに光明町住民との間に摩擦が生じ、本件事態の誘因となつたことは事実であるが、本来あるまじき誓約書の存在を盾として学校内での意思統一もされていない補充学習や促進学級の問題で同人が解同の思うとおりの態度に出ることを要求して、こともあろうに学校へ多数で直接に押しかけ、直接に多数をもつて屈服を迫るという解同のやり方に応じなかつたことは、何ら非難されるべきではないことは、前述の経過から明らかである。一般父母の間でも、同控訴人に対してではなく、主としてその批判が「解同」に向けられていたことは、このことを裏書きしているといえよう。

次にその余の控訴人らについてであるが、六月二六日以降の一連の事態のなかで、解同から継続的に追及を受け、話合いを要求されたのは、控訴人服部を除くと、同阿部と訴外田村の二名だけであり、同阿部の場合は六月二六日に解同支部員に暴力を振るつたということを理由とするものであつた(しかもこれは事実無根であり、およそ事件ともなり得なかつたものである。)。また、昭和四四年以来の「橋のない川」、地区学習・補充学習問題など、4で述べたような一連の問題は、そこでは何ら問題とはされていなかつた。

すなわち、服部を除くその余の控訴人らは職員会議の中で、まず校長や市教委が授業が正常にできるようにすべきであり、誓約書というようなもの(藪教育長によれば、個人的問題を学校という公の場へ持ち込んで混乱に陥れている解同を批判するという教師として当然の発言をし、現実の授業妨害をやめさせるよう校長に求めたということこそあれ、控訴人服部の言動を支持するとか混乱を増大助長するとかいうような特段の行動に出たという事実もないのである。また、市教委や校長からも暴力を振るつたとして話合いを求められた阿部を除いては、特段に解同との話合いを求められたという事実も存在しないのである。

6  混乱再発あるいは同盟休校の危険は存在しなかつた。

原判決が動揺の挙句に結局本件転任処分をやむなしとして容認したのは、原判決にも示されているように、一旦混乱は収拾されたものの控訴人らが引き続き吹田二中に勤務するときは、再度これまでのような混乱の発生する危険が十分あると市教委が判断して、そのような危険を予防するため、やむなく本件転任処分に出たと認定し、それが相当であつたという判断に基づくものであることは明らかである。

しかしこの判断はおよそ証拠に基づかない独断であつて、しかもこの点が覆えされればたちどころに原判決の結論は逆転せざるを得ないものである。そこで以下にこの点を明らかにする。

先に(五)の(2)のエで述べたように、六月二六日以降の事態に対して、父母・市民・教組などから解同の暴挙に対しての批判の声が急速に広まつていつたことが解同をして動員を中止させ、異常事態を克服させる力となつたのである。七月一〇日以降吹田二中では授業も正常にもどり、異常事態下の二週間の遅れを取りもどすための午後の授業(短縮授業せずに)が七月一一日から二〇日まで行われ、一学期末にできなかつた期末試験は九月早々に実施することとされ、八月二六日から五日間は補習授業を行うことも決められ、これらは正常に実施された。そして異常事態下にもその後授業が正常に行われるようになつてからはなおさら、父母・PTAから本件転任処分のごとき措置が要望されたというような事実は全くない。PTAが市教委に提出した七月六日の文書(乙第一四号証)も、当時の混乱が回避されないときは重大な決意と最後的行動を取るが、それは市教委の責任であつて我々の関知するところでないと述べているにすぎず、原審寺浦証言によれば、右の重大な決意うんぬんは、PTA役員の総辞職を考えていたということなのである。この文書をもつて、授業が正常に行われるようになつてからにおいて、九月以降にもPTAが何らかの行動を取るという表明とみることは、およそ事実にそぐわないものである。

さらに当審藪証言では、七月七日以降解同からは、控訴人服部との話合い要求も出ないようになつたし、本件のような転任処分の要求もなかつたし、解同が九月になつて再び押しかけて来るかどうかその辺は推定できないと述べているのであつて、藪教育長自身、PTAの前記文書の意味をすりかえて同盟休校の危険があつたなどこじつけてはいるものの、解同自体が再びあのような行動に出ることまでは予測していないのであつて、混乱の再発は現実的な危ぐではなく、本件転任処分を合理化するための虚構のこじつけにほかならないものといわなければならない。

何よりも解同の動員をやめさせたのは、父母・市民・教組などの解同批判の声の高まりによるものであり、同月一〇日以降解同が動員をやめた後にも、同月一八日に大阪府下の各界の人たちが吹田二中問題の真相を知るために集まり、民主教育を守ろうという決議をするなど、府下的にも解同と市教委に対する批判がいつそう広がつてきていたのである。

にもかかわらず、八月末頃になつて処分のうわさが立つ中で、二五日、三〇日に父母有志がいち早く市教委へこの点を問い正しに行き、三一日には本件転任処分の内示が出たことを知るや校長や市教委に対して抗議し、九月一日以後、急速に本件転任処分に対する抗議の声は日に日に高まつていつた。このことは、いかに本件転任処分が父母の気持に反した不当なものであつたかを如実に示しているとともに、このような父母・市民の声によつて原判決の認定するような混乱が再発するようなことはあり得ないものであつたことを示しているのである。

7  本件転任処分の違法性

本件各転任処分は憲法二三条、二六条、教育基本法六条二項、一〇条一項、二項に違反する違法なものである。

(一) 教育の自主性、教育権限の独立更には教育の中立性が公教育により非常に重要なものであり、それらが憲法二三条、二六条、教育基本法一〇条一項等で保障されたものであることはいまさらいうまでもない。この教育の自主性、教育の中立性等が憲法的に保障された重要なものであるということは、同和教育の分野であろうとそれが公教育として展開される場合にはいささかも変りはない。

そして、これら教育の自主性、教育権限の独立、教育の中立性の下に教育に携わる教員の身分については一般労働者や公務員と異り、特殊な身分保障を受けるものであることも明白なことである。教育基本法六条二項は特にこのことを確認した規定である。

そこで教員に対する特殊身分保障下での、転任処分に関する一般的保障の在り方についてであるが、兼子教授は左のとおり基準を設定される(前掲「教育法」新版三三〇頁以下、なお同著「教育法学と教育裁判」八九、一二二~九頁参考)。

(1) 教師転任は原則として、本人の希望ないし指導助言的な話合いにより得られる本人の承諾に基づくべきこと(希望・承諾転任の原則)。

(2) 教師本人の意に沿わない「不意転」が例外的に行れうるためには、ア 当該教師の教育意欲が著しく弱まらないと予定でき、イ 現任校の教育計画を著しく妨げる恐れがなく、ウ 新任校からの強い希望ないし新任校の教育の発展に必要な特段の事情があり、エ 教職員組合と十分協議した地域人事交流計画に従つて地域における合理的必要性のある場合でなくてはならない。

そして「不意転」については、教育条件整備的転任人事としてその教育法的な適法要件は相当に限定されているものと教育法的解釈をされるのである。

(二) 本件転任処分の違法性

この点を述べるにあたり、まず原判決が、「被告が、原告ら四名につき、「その特別事情とされる本件転任処分の原因ともいうべき各自の言動」として主張している事実そのもののみをもつて、原告らの転任処分の直接の理由としたとすれば、それは、憲法一四条一項、一九条に違反する違法なものといえよう」と判断を下している点を指摘しておく。

右は本件控訴審においても被控訴人が主張を維持している特別事情に対する正当な判断として維持されるからである。

右特別事情が本件転任処分に際し考慮することができない事情であるとすれば、次に原判決の「違法性なし」とした判断の柱である左記指摘がなおも維持し得るかどうかが判断すべき中心的事項となつてくる。

すなわち、(1) (原告服部を除く原告四名について)「原告服部の言動を支持し、もつて右混乱の増長に直接間接に影響を与えた。」という事実が果たして存在したか。(2) 「右紛争が、一面では原告ら五名を中心とした教師集団と解同光明町支部との間の同和教育を巡る従来の根本的な対立(提携原則を支持するか否かの対立)へと発展しつつあるような形態を示してきた。」といえるかどうか。(3) 「原告らが以後も吹田二中に勤務するときは、再度これまでのような混乱の発生する危険が十分ある」と評価し得るかどうか。(4) 「解同光明町支部が、同和教育を同支部と連携して行うように求める要求自体不当ということもできない。」と評価し得るか。(5) 「教育行政の責任者としては、一応その方針に従つて教育行政を行うこととし、したがつてその方針に従わない者を、その者の受ける不利益を最少限度に止めつつ排除することも、当時においては教育行政としてはやむを得なかつた措置といわざるをえない。」との評価が正当であるかどうか。という、以上五点である。

そこで順次検討すると、(1)の事実は全く存在しない。原判決もこの点については全く事実認定をしていないのである。また(2)も、六月二六日より七月七日までの事実経過を踏まえれば、かかる評価を下し得ない、提携原則を肯認しうるか否かの問題は従来からの問題であり、この紛争の中では全く「発展」などしていない。そこに存したのは解同による一時的個別的糾弾であつた。次に(3)の点であるが、解同光明町支部によるこれ以上の混乱の続発、再発はもはや許されざる状態にあつたこと5に詳述したとおりである。

もし仮にその危険の危ぐを市教委が有したのであれば、市教委はその責任者である解同光明町支部に対し、教育基本法一〇条二項に基く教育条件整備に関する責任と権限を持つ者として、しかるべき話合いによる危ぐ払しよくの努力をまずなすべきであり、これを全くなさず転任に及ぶこと許されないことはいうまでもない。

そこで、本件転任処分の違法性との関係で最も重要なのは(4)及び(5)の判断である。当控訴審で本件転任処分の事実上、実質的処分者であつた藪教育長が、本件各転任処分を「この際、方針、施策に沿わない者を排除せんとして行つた。」

趣旨の証言をするからである。そして本来本件転任処分というものが、危険回避、再発予防を目的としてなされたものでなく、基本方針、具体的施策に従わない者の二中からの排除目的でなされたからでもある。

そこでこの点を検討するに、基本方針、具体的施策、特に解同光明町支部との連携というものは、同和対策審議会の答申及び大阪府同和教育基本方針にそれぞれ違反するものであり、憲法二三条・二六条、教育基本法一〇条一項に違反するものであることは3に詳述したとおりである。

更に教育内容・方法について、右のような内容を教育委員会が定めること自体、教育基本法一〇条一項・二項に違反する事項なのである。

更に付言するに、教育基本法一〇条の原理の下では、教育委員会が教育内容・方法に関する一般的方針、施策を打ち出したとしても、それは指導・助言の性格しか持ち得ないことは言うまでもない(前提「教育法」三五四頁以下)。換言すれば、何ら法的拘束力を伴わないのである。法的拘束力を持ち得ないということを転任処分に関して述べれば、転任に際し、それが裁量の基準になし得ないということである。もし、それを許せば、教育基本法一〇条一、二項等に反するものとなるのである。

しかし、本件では、持つとしても指導・助言性しか有するものでない基本方針、具体的施策が前述のとおり違憲・違法の内容であるから指導・助言性も有するものではないのである。したがつて基本方針、具体的施策に従わない者として排除することは、二重三重に違法な処分となるのである。

以上からすれば、右基本法一〇条一項、二項に違反して定めた、かつ憲法二三条・二六条、教育基本法一〇条一項に違反する重畳的に違法な基本方針、具体的施策の、特に連携(提携原則)を基準としてなされた本件各転任処分は違法であると評価する以外にない。

更に加えて、右違法転任処分は教育基本法六条二項にも違反するのである。

先に転任処分の基準に関する兼子教授の見解を述べたが、本件各転任処分はことごとくその基準に反していること明白であるが、本件処分は「教育の主体性」「教育の自主性」「教育の中立性」等、真に教育を展開していくうえの根本原則をまつこうから踏みにじつた重大な違憲・違法行為なのである。

二  被控訴人の主張

1  本件転任処分(配置替え)の特色について

本件転任処分は、吹田二中教諭として勤務中の控訴人ら五名が従来の国及び被控訴人市教委の同和教育対策に反対して同調協力せず、かつ、吹田二中当局の指示又は勧告にも反対して服従せず、校下の同和地区の父兄又は母親らとの間に摩擦を生じ、特に昭和四七年六月二六日より翌二七日に及ぶ同校内における徹夜交渉の決裂によつて現場の大混乱を招いたため、同盟休校の危機を回避し、かつ、校内運営の平穏を回復するため、父兄側及び吹田市議会側等の要望にも応ぜざるをえず、市教委及び被控訴人は、急ぎ控訴人ら五名をそれぞれ他の吹田市立各中学校へ同年九月一日付をもつて分散転出させるほかなきに立ちいたつたため、なされたものである。そしてその後においては、吹田二中は現状のごとき平穏無事の状態に復している経過事情にある。また本件は同じ吹田市内の中学校へ控訴人ら五名をそれぞれ分散し配置替えを行つたものにすぎず、勤務先の位置に差異があるのみで通勤について不利益はなく勤務内容には何らの差異がないいわゆる配置替え転任にほかならないことに注意しなければならない。

2  公立中学校の教諭に対する配置替え処分について

一般に国家公務員又は地方公務員は、これに対する配置替え若しくは転任処分につき、その任命権者に違法なる意図目的又は被処分者に対する著しき不利益がない限り、これを甘受服従すべきことはその制度上当然の事理である。そして判例上も教員に対する転任又は配置替えについても、特にその自由裁量権の範囲を逸脱しない限り違法はないとされ、これがために被処分者の意図する授業計画が実施不能となつたとしても、いわゆる教員の教育権の独立を侵害したものとはいえず、違法はないとされている。更に教職員として公の教職に従事する者は転任による精神的、物質的負担を受忍するを要するとされ、また自宅より通勤不能な地域への転任処分も不利益な処分ではないとされている。

3  本件における教育権の独立侵害に関する控訴人らの主張の失当について

控訴人らは、本件における教育行政官庁の同和教育に関する解同の対処が差別的であつて違法であり、したがつて教職員である控訴人らの教育権の独立を侵害し無効である旨を主張する。しかし本件は教育基本法一〇条(教育行政)にいう不当な支配には該当せず、控訴人らの主張はその意図目的が控訴人側に背反する一事のみをもつて、一方的に独断専行の主張をなすものにほかならない。

右法条は教育官庁及び教職員一般に関し広く不当な、かつ、直接的な支配を禁止して、正当なる教育及び教育行政の政治的中立性を確保せんとしているところ、本件における解同の行動にはこのような不当支配が明認できないから、被控訴人による紛争回避のための本件転任処分は是認せられるべきであつて、控訴人らの主張は失当と断ぜざるをえない。

なお公務員の転任処分については、被転任者の事前同意は、判例上も、事情によつてはこれを得る必要がないとされている。

三  証拠関係〈省略〉

理由

一  控訴人増成が昭和三〇年四月吹田市公立学校教員に任ぜられ、昭和四四年四月以降吹田二中教諭として社会科を担当し、昭和四七年度においては同校一年九組の学級担任をしていたこと、控訴人松田が昭和三六年四月吹田市公立学校教員に任ぜられ、昭和四二年四月以降吹田二中教諭として国語科を担当し、昭和四七年度においては同校三年国語科を担当していたこと、控訴人小川が昭和三八年四月吹田市公立学校教員に任ぜられ、以来吹田二中教諭として数学科を担当し、昭和四五年度以降同四七年度に至るまで同校特殊学級担任をしていたこと、控訴人阿部が昭和四二年四月吹田市公立学校教員に任ぜられ、以来吹田二中教諭として保健体育を担当し、昭和四七年度においては同校一年一一組の学級担任をしていたこと、控訴人服部(旧姓土肥)が昭和四六年四月吹田市教育委員会(以下市教委という)社会教育課非常勤嘱託として採用され、同市光明町学童保育指導員をし、昭和四七年四月同市公立学校教員に任ぜられ、吹田二中教諭として同校一年国語科を担当していたこと、被控訴人が府費負担教員である控訴人ら吹田市公立学校教員に対する任命権者であるところ(地方教育行政の組織及び運営に関する法律三七条)、同法二六条による事務委任を定めた「府費負担教職員の任免その他の進退に関する事務の一部を市教育委員会教育長に補助させる規則」(大阪府教育委員会規則第五号)に基づく「市教育委員会教育長が行う事務補助執行に関する規程」(大阪府教育委員会訓令第二号)二条二号により府費負担教職員(校長を除く。)の配置に関する事務を市教委教育長に補助執行させていること、被控訴人の前記補助執行者である市教委教育長藪重彦が、被控訴人名で、昭和四七年九月一日付で、控訴人増成を吹田市立第六中学校教諭に、控訴人松田を同市立第一中学校教諭に、控訴人小川を同市立青山台中学校教諭に、控訴人阿部を同市立高野台中学校教諭に、控訴人服部を同市立山田中学校教諭に補する旨の各転任処分をなしたことは当事者間に争いがない。そして控訴人服部を除く控訴人ら四名が本件転任処分を不利益処分であるとして同年九月二六日ごろ大阪府人事委員会に審査請求した(控訴人服部は条件付採用期間中の職員であり、審査請求はできない。)が、既に右転任処分を争う本訴が提起されていることもあつて審査請求後三か月を経過するも同委員会の裁決がなされていないことは成立に争いのない甲第六八号証の一ないし四及び弁論の全趣旨によつて明らかである。

二  本件転任処分がなされた経緯について検討する。

成立に争いない甲第一一号証、第二六、第二七号証、第四二号証、第四七ないし第四九号証、第五〇号証の一、二、第六六号証、第七九号証の一、二、第八〇号証、第一六二号証、乙第三号証の一ないし四、第七、第八号証、第一五号証、第一六、第一七号証の各一ないし三、第二三、第二四号証、乙第一六号証の三及び当審証人明原常一の証言によつて成立の認められる甲第二八号証、原審における控訴人松田本人尋問の結果によつて成立の認められる甲第三三号証、当審における控訴人松田本人尋問の結果によつて成立の認められる甲第三二号証、第三八号証、第五三号証、第一〇四、第一〇五号証、第一三一号証の一ないし四、第一三二ないし第一三五号証、第一三七ないし第一三九号証、第一四〇号証、第一四四、第一四五号証、第一四七号証、第一四九号証、原審証人寺浦正一の証言によつて成立の認められる甲第三五号証、乙第三号証の六、第一三、第一四号証、第一八ないし第二一号証、当審における控訴人服部本人尋問の結果によつて成立の認められる甲第一七号証、甲第一五〇号証、弁論の全趣旨によつて成立の認められる甲第六ないし第一一号証、第三〇号証、第三五号証、第三九号証、第四二号証、第一〇八号証の一、二、第一〇九号証、第一一四、第一一五号証、第一三〇号証、第一四一ないし第一四三号証、第一四六号証、乙第四号証、第六号証、原審証人田村滋美、寺浦正一、当審証人石川芙蓉、同明原常一、同馬原鉄男、同杉尾敏明、原審及び当審証人藪重彦の各証言、原審及び当審における控訴人ら五名の各本人尋問の結果、弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1  吹田二中は昭和四七年四月当時において生徒数一〇四四名、教職員数六〇名の中学校で、校区内には未解放部落である光明町地区(生徒数約八〇名)があるため、教育行政の面でも同和教育主担者の配置、学級定員の縮少等による同和教育加配教員の配置の配慮が行われ、いわゆる同和教育推進校として同和教育が行われている。

2  未解放部落を対象とする解放運動は大正一一年に設置された水平社運動に端を発し、一部先覚者の強力な指導により進められてきたが、戦後新憲法による民主制度の確立とともに解放運動は我が国民主化の一環としてより強力に進められることとなつた。昭和二一年二月には部落解放全国委員会(昭和三〇年部落解放同盟と改称、以下解同という。)が結成され、自主的な解放運動の組織化が進められることとなつた。行政面における同和対策への取組には当初見るべきものがなかつたが、昭和四〇年八月一一日「同和地区に関する社会的及び経済的問題を解決するための基本的方策」についての同和対策審議会答申(以下同対審答申という)がなされたのを契機に、これを指針として本格的な同和対策が推進されるようになり、昭和四四年には同和対策特別措置法が制定され、これを基盤とする各種の同和対策事業も積極的に行われるに至つた。しかし、もともと社会的、経済的に著しく劣位の状態に置かれていた未解放部落の実態を右のような行政上の措置により一挙に改善することは困難であるうえ、社会一般に定着している部落差別の意識は抜き難いものがあり、未解放部落における貧困、未就学の問題も容易に解決されず、結婚、就職等を巡る悲劇も跡を絶たない状態が続いた。しかし近年においては全国的に同和対策の著しい進展がみられ、各種の同和対策事業を通じて所得や住居の改善が漸次進められるとともに、未就学の問題も次第に解決され、高校進学率も年々一般水準に接近しつつあり、また社会一般における部落差別の意識も同和教育の普及、世代の交替、いわゆる混住の拡大等に伴つて徐々にではあるが改善されつつあり、非同和地区住民との結婚も次第に増加し、就職面での差別も大都市を中心として解消の方向に向つている。

3  前記同対審答申は教育問題に関する対策についても答申をしているが、これについては、教育対策が人間形成に主要な役割を果すものとして重要視されなければならないとし、同和教育の中心的課題は法の下の平等の原則に基づき社会の中に根強く残つている不合理な部落差別を無くし、人間尊重の精神を貫くことであると強調し、同和教育では教育を受ける権利(憲法二六条)及び教育の機会均等(教育基本法三条)に照らして、同和地区の教育を高める施策を強力に推進するとともに個人の尊厳を重んじ合理的精神を尊重する教育活動を展開しなければならないと同和教育の基本方針を指示している。そして同和教育の具体的方策として学校教育において取るべき措置と社会教育において配慮さるべき事項について諸種の勧告を行つているが、そのうち学校教育において取るべき学力の向上措置については、「同和地区子弟の学力の向上をはかることは将来の進学、就業ひいては地区の生活や文化の水準の向上に深い関係があるので、他の施策とあいまつて、児童生徒の学力の向上のため、以下に述べるような教育条件を整備するとともにいつそう学習指導の徹底をはかること。」を提唱し、また社会教育の方策の一つとして、「同和地区における住民の自主的、組織的な教育活動を促進し、住民みずからの教育水準の向上を助けるために、子供会、青年団、婦人会等少年、青年、婦人等を対象とした社会教育関係団体の結成を援助し、その積極的な活動を奨励すること。なお地区の実情等に即して同和問題の理解を深めるよう、同和地区における学校、社会、家庭の有機的な連携をとるよう奨励すること。」を指摘している。また大阪府においては昭和四四年一〇月二九日同対審答申をより具体化した大阪府同和対策審議会からの答申がなされたが、右答申は学校教育対策について、基本方針として前記同対審答申と同趣旨の方向づけをなすほか、解放運動との提携について、「同和教育は、国民的課題としての部落解放を目標とした教育である。したがつて、同和教育は、部落解放運動との緊密な提携のもとで展開されねばならない。」と規定しており、具体的対策として、調査活動、指導手引の作成、学力の向上、進路指導、同和教育推進教員(主担者)制度の確立、教員定数の改善等についての勧告を行つている。なお被控訴人においては右答申に先立つ昭和四二年五月三一日、前記同対審答申を受けた形で大阪府同和教育基本方針及び具体的施策を定めたが、右基本方針には、「本方針の実施にあたつては、教育の主体性をたもち、学校教育と社会教育の連携をはかるとともに、関係諸機関および諸団体との連携をいつそう密にして、総合的に推進しなければならない。」と同和教育の基本姿勢が示されている。一方市教委は昭和四五年五月二八日、「吹田市同和教育基本方針」及び「吹田市同和教育推進についての具体的施策」を定めたが、右基本方針は、「同和教育は民主主義の原点であり、とくにそれにとりくむ教職員は、その責務を十分自覚し、みずからの課題として部落の解放にとりくまねばならない。」として、同和教育の積極的な位置づけとこれに取り組む教職員の姿勢を明示し、また「本方針の実施にあたつては、学校教育と社会教育の有機的な連携をはかるとともに、部落解放の願いと実践に学び、地域関係機関諸団体との連携をいつそう密にし、各種行政は相互に協力して、その実をあげるよう総合的に推進しなければならない。」と述べている。更に具体的施策は基本方針の目的達成のための諸施策を掲げているが、そのうち学校教育の推進体制の確立については、「(1)同和教育の体制を確立し、推進の中核となる同和教育担当者を定める。(2)同和教育は民主主義の原点である。したがつて、あらゆる教育課程の中に正しく位置づけ、教師集団が全員でとりくむ体制を促進する。」と、地区学習については、「同和地区の児童・生徒に対し差別にうちかつ学力を身につけさすことを目的に地区学習を推進する。そのとりくみについては、学校と関係諸団体が一体になり学校が主体的に行なう。」と、連携と組織の確立については、「同和地区を有する学校では解放同盟を中心に、地区内諸団体との連携を密にして、地区の「同和教育推進協議会」(仮称)に対する積極的な助成活動を行なう。」とそれぞれ規定している。その後右吹田市の具体的施策は昭和四六年六月四日その一部が改訂されたが、その際前記推進体制の確立(2)には「特に同和教育副読本「にんげん」を軸に、差別を許さない差別にうちかつ児童・生徒を諸活動を通して育成する。」が付加された。(なお右具体的施策の昭和四九年六月二〇日改訂では補充学習(従前の地区学習)中の「学校が主体的に行なう。」の一句が削られ、連携と組織の確立については、「同和教育推進校は解放同盟との連携を密にして、同和教育を推進する。」と改められた(右改訂は後記藪教育長の時代になされた。)。その後昭和五四年九月三〇日全面的に改訂され、「同和教育は民主教育の原点である。」との文章は削られ、連携については「同和教育を推進するため、関係諸機関・諸団体との連携をはかる。」とされ、連携の対象としての、「解放同盟」も削られた。)

4  吹田二中においては前記のとおり校区に同和地区を有していたものの、当初の間は一部教師による非行生徒の指導等一般的取組のほか積極的な同和教育は行われていなかつた。しかし解同吹田支部の要請と市教委の呼びかけにより昭和三七年五月二八日吹田市同和教育研究協議会(以下吹同協という)が結成され、吹田市内の全公立学校がこれに加盟することとなつたことも契機となつて、そのころから次第に学校全体として同和教育に取り組もうとする姿勢がみられるようになつた。そして、控訴人松田が吹田二中に赴任した昭和四二年四月以降は、同人の意慾的な指導もあつて、教師のうち同和教育に関心と熱意を抱く者も増加してきた。対外的には吹同協等の活動への参加が積極的になり、校内的には非行問題との取組を中心に同和地区生徒や卒業生に対する生活指導が強力に進められるようになつた。また昭和四三年には解同吹田支部と二中教員との懇談会が開かれ、同和教育について同和地区住民の協力を得る態勢も次第に整えられた。そして、吹田二中では昭和四三年度から従前任命制であつた同和教育主担者を、校内的な運用として、全教員の選挙で選ぶ方法に改めた。

5  控訴人増成は前記のように吹田市内の中学校に勤務するうち、吹同協や大阪府同和教育研究協議会(以下大同協という)の活動に参加するようになり、特に昭和四〇年四月から昭和四六年三月まで吹同協の事務局員を担当し、さらに昭和四一年四月から昭和四六年三月まで大同協の事務局員を担当するなど同和教育に積極的に取り組んでいた。控訴人松田は早くから同和教育に強い関心を持つており、前記吹同協の結成に際してはその中心的役割を果して副委員長となり、その後昭和四五年まで吹同協の事務局長を、昭和四〇年から同四三年まで大同協の事務局員を担当するなど同和教育の研究、推進に努力した。前記吹田二中への転任も自らの希望に基づくもので、赴任後は吹田二中における同和教育を前進させるため、教師の結集、啓もうに尽力しかなりの成果を挙げ、昭和四四、四五年度には吹田二中の同和教育主担者に選任された。控訴人小川、同阿部は前記のように新任と同時に吹田二中に勤務するようになつたが、昭和四二年四月以後校内で開かれた同和教育の自主的な研究会等を通じて、同和教育についての認識を深め、校内の同和教育活動等に積極的に参加するようになつた。なお、控訴人らは大阪同和教育研究サークルの会員であり、また吹田部落問題研究会の会員でもある。

6  吹田市光明町地区の住民はその大部分が従前解同吹田支部の組織下にあつたが、同支部と解同大阪府連が対立したため昭和四四年二月地区の有力者である高田登美雄を支部長とする解同光明町支部が結成された。光明町支部は高田支部長の指導の下にその組織を固める一方、同年六月解同大阪府連とともに当時の吹田市長宅を三日三晩包囲して強く迫つて、吹田市の同和行政を解同光明町支部を通じてのみ行うとのいわゆる「窓口一本化」の約束を取り付けることに成功した。右窓口一本化の実現は同和地区住民が諸種の同和対策上の利益を受けるためには解同光明町支部を通じ、その意見に従うことを余儀なくさせたことから、解同光明町支部は従前の解同吹田支部の組織を吸収する形態で、急速にその勢力を増大することとなつた。解同光明町支部の運動方針は他の解同組織と同様に、部落住民と部落以外の住民を対立関係において捕らえ、部落住民が過去において社会的、経済的に著しい劣位の状態にあつたのは、すべて部落住民に対する差別観念の結果であるとして、これを解消するためには差別者である非部落住民や行政機関に対する徹底的な糾弾闘争を通じて自らの権利を勝ち取る以外にないとの考え方に立つものであつたが、同支部は結成当初から活発に差別糾弾闘争を行い、また行政機関に対する諸種の施策の要求を積極的に展開した。特に教育問題については、現実に存在する差別を克服するためには部落住民自身が差別に打ち勝つ力を身につけなければならないとして、同和教育を重視する立場を取り、学校施設の改善や地区の子弟の学力向上のための施策を強力に要求する態度を取つた。そして結成後間もなく解同光明町支部の下部組織として、小、中、高校に通学する子弟の父母による「教育を守る会」が結成され、同和教育に関する諸要求の実現のための動員に参加するなど積極的な活動を行うこととなつた。

7  前記のように、昭和四四年当時吹田二中においては、控訴人松田を中心とする教師集団の努力により同和教育への取組が行われていたが、これら二中教師集団の同和教育についての考え方は、同和教育をあくまで民主教育の一環として捕らえ、全生徒をその対象に部落差別が民主主義社会の中で許すことのできないものであるという認識を育てる中で、同和地区の生徒達に十分な労力や体力を身につけさせ、部落差別に負けない人間を育成するというものであつた。このように当時の二中教師集団としては、同和地区だけを特別の対象とせず、また教師が主体性を持ちながら同和教育を実施しようとする考え方に立つており、この点過去における部落差別の実態を直視し差別者である非同和地区住民に対する闘いの中で自らの地位を高めて行こうとする解同光明町支部の考え方と根本的に相異するものであつた。そのため、同解同支部は二中教師集団の考え方を偏向と決めつけこれを批判する姿勢を強め、これら教師集団の行動や同和教育及びこれに伴う学校運営に事あるごとに干渉する態度を取つたことから、両者の間に深い対立が生じ紛争も発生し、同和教育の推進について協力してゆくことができなくなつた。

すなわち、(1)昭和四四年三月大阪府下の阪南中学校の教師木下淨が組合役員選挙に立候補する際配布したあいさつ状等の中に差別文言があるとして解同大阪府連矢田支部が追及したいわゆる矢田事件が発生したが、解同光明町支部は右木下文書が差別であることを認める決議をなすよう当時の吹田市教職員組合(吹教組という)吹田二中分会へ要求した。これに対しては分会側は組合の内部問題であることを理由にこれを拒否した。

(2)同年五月吹教組主催の部落解放教育研究集会において、控訴人小川が昭和四三年度の非行問題への取組に関する報告をなした際、その場に居合わせた高田支部長は報告内容が差別的であると発言し抗議した。

(3)昭和四五年秋吹田二中における同和教育の一環として部落差別を題材とする映画「橋のない川」第一部を生徒全員に観賞させる計画がなされた。そして右観賞については十分な事前指導をする必要があるとの意見が多数を占めたため、あらかじめ教師及びPTA役員だけで映画を見ることとなり、同年一一月一九日校内で試写会が開催された。解同光明町支部は右映画は内容が同和教育に不適当として上映を希望しない態度を取つていたが、同日試写会が始まつて間もない午後一時一〇分ころ、高田支部長ほか三名の支部役員が予告もなしに試写会場へ立入り、控訴人松田に対し、「誰の許可を得て映画をやつているか。」と申し向け、「差別者出てこい。」と同控訴人を廊下へ引きずり出し、同人に対し差別的な暴言を吐き、更に控訴人ら二中教師に対するひぼう中傷を行い、その結果試写会は中止を余儀なくされた。解同光明町支部は翌二〇日文書で、右「橋のない川」上映問題について解同大阪府連の指導により一二月二日午后二中教師との話合いを行いたい旨の申入れを一方的に行つた。吹田二中では右申入れについて職員会議で検討したが、右のような一方的な申入れには応じられないことを決めた。そして、一連の解同光明町支部の干渉について市教委との話合いを行いたい旨の申入れを校長名で市教委に対して行い、一一月三一日学校内でその話合いが行われた。しかし後記のように、市教委としては同和教育について解同との提携を重視する態度を取つていたことから、右話合いにおいても解同側の見解を支持する意向を示したほか積極的な解決策を提示することもなく、話合いの進展はみられなかつた。一方解同光明町支部は一二月一日支部大会を開催し、同大会は「二中一部教師の数々の差別事件」と題する決議案が提案され、採択され、翌二日解同側は午後一時ころ約四〇名の支部員が吹田二中へ話合いのため来校したことから、学校当局は同日午後市教委の指示を受け、午後の授業を打切り教師に対し解同側と話し合うよう指示した。しかし教師側はこれに応じようとしなかつたため、話合いは実現せず、解同側は引揚げた。その際教師側は吹教組吹田二中分会(責任者奥尾芙蓉名義)名の高田支部長に対する要請書を交付したが、右要請書の内容は、前記一一月一九日試写会当日の支部側の行動特に高田支部長の控訴人松田に対する差別発言を批判し、今後の学校と同解同支部との関係を回復するために反省の討議をしてほしいというものであつた。なお学校当局は映画「橋のない川」の上映を中止した。

(4)昭和四六年三月一日市教委から同和教育の副読本として送付されてきた全国解放教育研究会(代表上田卓三ら)編集の「にんげん」の配布につき、控訴人松田は職員会議において、本来教育内容は現場の教師が自主的に決定するもので副読本の採否の決定も現場教師がなすべきであるとの意見を述べたが、結局右会議で配布することが決まり「にんげん」は生徒達に配布された。また老朽化した校舎の建替えについて、控訴人らは従前からこれを要求してきたが、同年六月吹田二中、同PTA、解同光明町支部により校舎建設等の促進を目的とする「二中をよくする会」が結成され、同和予算が多額に使用される同校の校舎建設については、高田支部長は右予算は解同が勝ち取つたものとする態度を示し、市教委も建設についての要望はすべて同会を通じて行うこととした。ところが同月二一日開催された職員会議の席上、控訴人らは吹田二中が同解同支部と提携して校舎建設運動を推進することに反対の意見を表明し、吹教組吹田二中分会責任者(控訴人増成)名で同年七月三一日市教委に校舎建設に関する要望書を提出して、解同側と対立した。

(5)吹田二中においては、解同光明町支部の要求により昭和四五年一月ころから、学校側の主催により地区学習が行われていた。右地区学習は、光明町地区の生徒を対象に、放課後吹田二中教師が地区所在の解放会館において学習の指導を行い、学力の向上を図るためのものであつたが、当初の間は二中教師の相当部分の協力を得て週二回午後七時から午後八時半まで実施されていた。ところが同解同支部は学校側が計画した学習会にあきたらず学習会は中止され、その後吹田二中らの教師と同解同支部らと具体的方法につき接衝した同年九月下旬の打合せ会で同解同支部の吉田教育対策部長から二中教師は主体性を主張して解同の要求に応じない、同和教育を進める教師の主体性は解放運動に従属すべきであるとの趣旨の発言があり、同年一一月ごろからの同解同支部主催の補充学習会(内容は地区学習会と同じ)には数名の教師が参加したにとどまつたことから、同解同支部は控訴人ら教師に強く反発した。

(6)昭和四六年一〇月二六日ごろ吹田二中の一年の社会科の授業中一生徒が同和地区出身の生徒に対してさげすみの口調で同和地区は柄が悪いと発言したことから、解同光明町支部は右差別的発言は吹田二中の同和教育の姿勢自体に問題があるとして同年一一月ごろ同解同支部主催の「二中差別決起集会」が開かれた。

8  一方市教委は前記吹田市同和教育基本方針及びその具体的施策の内容や前記経過から明らかなごとく、学校教育における同和教育の推進にあたつては、同和地区住民を組織する解同との協力なくして同和教育が行えないところから、解同との提携を重視する姿勢を取り、現実の同和教育行政にあたつては、解同の要求を受けこれに同調する形で諸種の施策を行う傾向がみられたが、前記のごとく控訴人ら教師集団が校下の解同光明町支部と対立し、現実に補充学習等同和教育を推進することができないため、これを憂慮して、昭和四七年一月二八日、藪教育長、久米市教委同和教育指導室長らが吹田二中に赴き、吹田二中教職員と話合いを持つたが、その際藪教育長ら市教委側は同委員会の定めた同和教育基本方針及び具体的施策にのつとり、解同光明町支部と話し合い、互に連携して同和教育を進めるよう説得したが、控訴人らは市教委の定めた右基本方針及び具体的施策がその立案にあたり現場の教師の意見を聞かずに作成されたことを問題とし、また同和教育についての学校教師の主体性が問題ともなり、結局同和教育について結論をみないまま話合いは終了した。その後市教委は同年二月一四日吹田二中校長、同和教育主担者を通じて吹田二中の教職員に対し同委員会の基本方針に沿い同解同支部との連携を強く要請し、更に同月中教育委員、教育長らが吹田二中に赴き吹田二中教職員に話合いを申し入れたが、実現するに至らず、意思を疎通することができなかつた。この間市教委は同月一六日付で前記吹田二中差別事件をも引用した同和社会教育のプリント「部落解放はみんなの課題」を生徒を通じて配布しようとしたところ、控訴人増成、同松田らは同年三月一日の吹田二中の職員会議の席上右差別事件についてはまず吹田二中内部で問題の本質を議論してその原因を究明し、その解決方法を検討すべきであるとし、また右プリントには右事件と全く関係のない高校での事件の記載があつて適当でないとして配布を批判する意見を述べた(現実には全校生徒に配布された。)。

9  昭和四七年四月一日の定期人事異動に際しては、吹田二中においては、三五名(従前四〇名)学級及び促進学級のため同和教育加配があり、九名が去つたあとに新任校長として麻田勝也が着任したほか、新任、転任教師として合計二〇名の教師の転入が行われた。ところが、右二〇名の教師のほとんどは、解同との提携を主張する立場に立つものであり、前年の昭和四六年四月の異動で転入した一〇名の教師のほとんども同様の立場に立つていたことから、当時在籍の六〇名の教師の半数近くが批判派教師で占められることとなつた。そして既に三月一五日の前年度職員会議で昭和四七年度の同和教育主担者として控訴人松田が選ばれ、これを前提とする校務分掌の取決めが予定されていたにもかかわらず、転入してきた教師の中から同和教育主担者の再選を四月五日の職員会議に提案した。右提案の背景としては、前記のように控訴人松田が同和教育主担者に選任された後、解同光明町支部より学校長あてに昭和四七年度の同和教育主担者の人選にあたつては、支部とのパイプ役となりうるような人を選んでほしい旨の要望書が提出されていたという事情もあつた。前記提案については、控訴人らを中心とする教師らから強い反対意見が出され、採決の結果二四票対一七票で提案は否決された。しかし麻田校長は控訴人松田が解同に同調しない立場を取り続ける態度を表明したこともあつて、二中同和教諭推進の支障となるとの見地から同和教育主担者の変更を強行することとし、同月七日の職員会議において昭和四七年度同和教育主担者として村田教諭を、従前置かれたことのない同副主担者として尾松教諭及び森本教諭の両者を選任する旨発表した。これに対しては当然のことながら控訴人らを中心とする教師らが一斉に反発し、担任、担当科目以外の校務分掌も行われないまゝ日時が経過し、また市教委の新校舎の完成した二学期からの促進学級の設置も容易でない状態になつた。

10  控訴人服部は大学四年の昭和四五年大阪府教員採用試験に合格したが採用されず、大学を卒業して昭和四六年四月吹田市教育委員会教育課非常勤嘱託として採用され、昭和四七年三月まで同市光明町学童保育指導員として光明町地区の解放会館に勤務し、一、二年生の学童及びその父兄に接し熱心に同地区の学童の学習指導や生活補導に従事したことから、地区の父兄からその実績を評価されていた。同控訴人は昭和四六年九月再度大阪府教員採用試験に合格したが、昭和四七年二月末になつても採用されずにいたところ、予て顔見知りの高田支部長から、同年度吹田二中に同和教育加配教員として五名の教員の人員増が認められる予定なので、希望するのであれば、解同光明町支部として、同控訴人を市教委へ推せんしてもよい旨言われ、同支部長にその推せん方を依頼した。右吹田二中への同和教育加配教員は昭和四七年度に新校舎が完成することに伴い、低学力の生徒を対象とする促進学級が開設される予定であつたことから、その要員として五名の教員の枠を認められていた。三月一七日控訴人服部は同じく学童保育指導員となつていた訴外森本英之と共に高田支部長から呼出しを受け、解放会館事務室へ赴いたが、同所で高田支部長から個別に同和加配の枠が取れたので推せんしてもよいが、吹田二中教員として採用の暁には解同光明町支部と提携して同和教育に取組んでほしいこと、及び解同支部宛にその旨の誓約書を書いて提出してほしい旨を告げられ、森本と共にこれを了承した。翌一八日控訴人服部は、森本と共に解放会館において、森本の記載に倣い、高田支部長あての、「私は部落解放同盟大阪府連合会吹田光明町支部の指導と助言のもとに、解放教育にとりくむ教師集団と提携して、自らの課題として積極的に取りくむことを誓約いたします。」との誓約書を書き、同会館内の解同光明町支部事務室へ提出した。同月二一日控訴人服部は連絡を受け、森本と共に右誓約書を携えて高田支部長宅へ赴き高田支部長に直接これを手渡した。その席には市教委の久米同和教育指導室長及び石井教職員課長らもいたので、高田支部長は右誓約書を読上げ、支部として控訴人服部らを推せんすることを右久米室長らに伝えた。同月二七日控訴人服部は市教委へ出頭し、同年四月吹田二中及び岸部小学校に新任として採用予定の者及び転入予定の者一〇数名と共に市教委側の面接を受けたが、その席上久米室長は参集者に対し、吹田市同和教育基本方針及び具体的施策のプリントを渡してその内容を説明し、また同席していた高田支部長は解同と連帯提携して同和教育に従事してほしい、補充学習も積極的にやつてほしいことなどを強調した。右経過を経て控訴人服部は四月一日吹田二中教諭として正式に採用され、辞令の交付を受けた。なお同日吹田二中へ新任及び転任として発令を受けた者一〇数名は、連絡を受け大阪市東淀川区所在の日の出解放会館に参集したが、その席には吹田二中内で前記のように控訴人松田らと対立関係にあつた批判派の教師八名も出席して学習会が開かれた。右学習会では、吹田二中の現況、問題点などについての説明が行われた。同じような学習会は、同月三日にも行われた。なお控訴人服部は同月五日の職員会議で、麻田校長から同年九月以降そのための教室も設備された新校舎で開設予定の促進学級を担当する予定であることを告げられ、そのため授業時間数も他の教諭(週二〇時間)に比し著しく軽減され(週八時間)、また促進学級開設のための検討委員会に他の四名の教諭とともに加わることが決定された。同月一〇日控訴人服部を含む促進学級担当予定の教員五名は会合を開き、促進学級の構成方法、内容等について検討したが、明確な結論は出ず、とりあえず既に促進学級を実施している他の小、中学校を見学するなどして諸種の資料を集めることとした。

11  控訴人服部は前記誓約書提出後の経過特に昭和四七年四月初旬の職員会議等における議論を通じて吹田市の同和教育の方法について教師間に際立つた対立があることを知るとともに、自己が採用にあたつて解同支部に誓約書を提出したことは間違いであつたと考えるようになつたが、その時点では表立つた行動はせず、消極的立場に終始した。そして同月一〇日以後行われた促進学級検討委員会の会合にも当初の間は出席して協議に加わり、他校への調査活動にも参加し、同月二六日開かれた光明町子供会との話合い、翌二七日夜解放会館での教師と教育を守る会との話合いにも出席したが、その会合には吹田二中からは校長、教頭を始め教師約二〇名が出席し、主として補充学習の実施について父母側から強い要望がなされ、二中側もこれに協力することを約束した。しかし控訴人服部としては、自己が誓約書を提出し解同と提携して同和教育に取り組むことを誓約したことを後悔していたこともあつて、右補充学習への参加についても次第に消極的、かつ、批判的な態度を取るようになり、同年五月九日の補充学習の打合わせ会には出席したが、同月一八日森本教諭から五月、六月分の補充学習の実施予定表を示され参加を求められた際には不参加の意思を表明した。そして同控訴人はその後は促進学級検討委員会の会合にも出席を拒否する態度を取つたことから、促進学級担当予定の教師らの追及を受けるようになり、解同光明町支部側も同控訴人の動向を知ることとなつた。また同控訴人は同年六月初旬計画された学童保育指導員との話合いにも出席せず、事態を重視した吹田市教育委員会側が同控訴人を説得すべく呼出した際にも、校長の指示があつたにもかかわらず、これに応じなかつた。

12  前記のように、控訴人服部が補充学習に参加しないばかりか、吹田二中における同和教育そのものに協力しない態度を取るようになつたことについて、光明町地区の父母らや解同光明町支部は、控訴人服部が提出した誓約書の趣旨を無視する背信行為であるとして反発し、控訴人服部が教師になるために解同光明町支部の推せんを受けこれを利用しながら、教師に採用されるや解同を裏切つたものと考え強い反感を抱いた。六月二四日教育を守る会の会員らは解放会館に会合し、右のような控訴人服部の態度について同控訴人と直接話し合い追及するため六月二六日吹田二中へ赴くことを申合わせた。麻田校長は右席上に同席しており、大挙来校はしばらく待つてほしいと述べたが、従来の経緯に鑑み拒むことができないとして、話合いに応じさせるよう努力することを約した。右状況は直ちに市教委側も知るところとなり、市教委としては当日責任者が吹田二中に出向き混乱を回避すべく直接対策を講じる方針を決めた。

同月二六日(月曜日)解同側は教育を守る会の会員約一二〇名を動員し、午前九時三〇分ころ吹田二中へ押しかけ、校長を通じて控訴人服部に会わせるよう申入れた。麻田校長は控訴人服部に解同側と話し合うよう指示したが、同控訴人はこれに応じない態度を示したことから、解同側は憤激し、午前九時四〇分ころ、四、五〇名の支部員らが職員室に立入り、控訴人服部を取囲んで、「差別教師。」「ずぶとい女や。」などとば声を浴びせながら追及を続けた。当日同控訴人は三時間目と四時間目の授業が予定されていたが、右状態で授業に出ることもできず、時間が経過した。右事態に対し麻田校長は午後の授業を打切り職員会議を開き対策を講じることとし、午後二時ころから控訴人増成が議長となつて職員会議が開かれた。市教委側は斉藤同和教育指導室長ら数名が午前中から、午後からは教育委員長代理、藪教育長も来校していたが、麻田校長に対し控訴人服部に解同側との話合に応じるよう指示させたほかには、同控訴人や解同支部側と積極的に接衝することはせず事態の成行きを見守つていた。職員会議では控訴人服部が誓約書を書いたのは、吹田二中の学校教育とは直接かかわりのないことで、これを学校教育の場に持込んで混乱を起こすのは不当であり、同控訴人に話合いを命じるべきではない、解同支部員が引揚げ正常な教育環境を回復することが先決問題だとする控訴人らを中心とする教師の意見と控訴人服部は解同との話合いに応じるよう決議すべきであるとの批判派教師の意見が対立し、午後四時ころになつても結論が出なかつた。そのうち午後四時過ぎ解同支部員ら四、五〇名が了解をえずに突然職員会議中の職員室へ入り込んで来たため、職員会議は中断やむなきに至つた。入室して来た者のうち光明町子供会の生徒は控訴人服部を取囲み無理矢理他の教室に連行し、他の父母らの相当数もこれに加わつて午後一〇時ころまで同控訴人の追及を続けた。右のように同控訴人が連行される際、控訴人阿部は控訴人服部を救出しようとしてこれを追いかけ支部員らともみ合つたが、その際父母の間から控訴人阿部が支部員に暴行を加えたとの声があがり、現場は混乱の度を増した。午後五時過ぎ高田支部長は職員室に入室して来るや否や、「暴力教師阿部出てこい。」と叫び、他の支部員と共に控訴人阿部を解放会館に連行しようとしたが、同控訴人がこれに対し抵抗したことから、目的を果さなかつた。午後八時ころになつて麻田校長は再度職員会議を開催することとし、支部員達もいつたん職員室を退去して、職員会議が開かれた。会議では麻田校長は事態の収拾策として、同日の出来事については控訴人服部、同阿部の件を含めて遺憾であつたとの確認をしたい旨の提案をしたが、これに対しては、同日の混乱の責任は解同側にあるのに二中職員が遺憾の意を表明することは筋が通らないとする反対意見が出て、容易に意思統一ができなかつた。そのうち午後一〇時ころには解同支部員がいつせいに職員室に立入つたため、職員会議は中止され、その後は帰室してきた控訴人服部をも含めて、解同側に同調しない教師らに対し解同支部員らの個別的な追及が翌二七日午前五時ころまで行われ、例えば音楽担当の石川(当時奥尾姓)芙蓉教諭に対しては音楽の時間に解放歌を教えていないから差別教育を行つていると追及した。結局午前五時ころになつて職員会議で前日来の出来事につき遺憾の意を表明することの確認がなされたことから、解同側も教師に対する追及を一応中止した。控訴人服部は迎えにきた自動車に乗り帰ろうとしたところ、共産党の弁護士とともに逃げるとのことで校門が閉じられ自動車から降ろされ校長室へ連れもどされた。その間市教委側は、解同側に対しとりあえず動員を解いたうえで話合いを行うよう申入れたが、解同側はこれを聞こうともしなかつたため、市教委側は方策もないまま朝まで事態の成行きを見守つていた。午前七時ころ解同側も漸く動員を解いて全員が引揚げた。

翌二七日麻田校長は授業を中止し、午前一〇時ころから体育館で全校集会を開いた。集会では麻田校長が前日来の事態の経過を生徒に説明し、森本教諭も控訴人服部が教育を守る会との話合いに応じなかつたことを報告した。これに対し光明町子供会に所属する生徒約二〇名が、その場に居合わせた控訴人服部を取囲み、「なぜ誓約書を守らないのか。補充学習に行かないのか。」等詰問を浴びせ追及を始めた。その場には解同支部員(守る会会員と区別できないので以下解同支部員という。)約二〇名も来ており、事態の成行きを見守つていた。そして控訴人服部に対する追及が終ると、解同支部の吉田教育対策部長が演壇に上り控訴人服部を非難する演説を始め、これに続いて子供会の生徒達も「差別教師土肥を許すな。」と叫び、解放歌、石川青年の歌を歌い出すなどしたため、集会は混乱状態となり、討論等も行われないまま閉会した。

同月二八日には、午前中授業が行われたものの一〇〇名近い支部員が動員されて来校しており、不穏な状態が続いた。同日午後開かれたPTA総会でも数日来の混乱収拾についての議論がなされたが、席上高田支部長が、「差別教師土肥、暴力教師阿部は解同支部として許せない。徹底的に追及するのでPTAも協力してほしい。」旨発言し、一部教師もこれに同調する発言をし、これに対して反解同側の教師らが応酬するなどし、議場は混乱を極めた。

同月二九日午前中、控訴人阿部は一時間目の体育の授業に行こうとしていたところ、女姓支部員らに取囲まれて話合いを求められ、授業中止を余儀なくされた。そのうち高田支部長も来て控訴人阿部を連行しようとしたり、同控訴人の持つていた笛を取りあげ、同控訴人の耳元で吹き鳴らすなどした。また一一時過ぎ控訴人服部、同阿部、田村教諭(同人は教え子が高校で差別発言をしたとして追及されていた)の三名は校長室で市教委斉藤同和教育室長や校長から、解放会館へ話合いに行くことを求められていたが、田村教諭は気分が悪くなり救急車で市民病院へ運ばれた。その後高田支部長と支部員一名がいきなり入室し、解放会館へ連れて行くと言つて、控訴人阿部の座つている椅子を引張つて転倒させたり、腕や毛髪を引張つたり、両脇を手ではさみつけるようにしてゆさぶつたり、革靴のかかとで同控訴人の左足の指を踏みつけるなどした。同日午後校長の提案で運動場において全校討論集会が行われたが、集会では同日午前中各クラスにおいて行われた阿部、土肥問題についての討論の結果が報告された。その間集会の周囲は解同支部員約一〇〇名が取囲んで見守つており、緊迫した状態であつた。生徒の報告終了後控訴人阿部が登壇して同控訴人としては暴力を振るつていないこと等を説明し、その後再度登壇して発言しようとしたところ、居合わせた高田支部長はいきなり朝礼台上にあがり、同控訴人の後から口元の付近に腕を廻して後へ引き倒そうとした。控訴人阿部がこれを外して発言しようとしたところ、他の支部員がマイクスタンドを持つて同控訴人に殴りかかろうとしたり朝礼台の下から同控訴人の足を引張つて引きずり下ろそうとしたりなどした。このような高田支部長らの所為に対しては、生徒の間からもこれを非難する者も多く、集会は混乱のうちに散会した。

翌三〇日以後も連日にわたり、解同支部員が多数吹田二中へ押しかけ、これに関西大学解放研の学生らも加わり、授業を妨害したり、控訴人阿部ら教師を捕まえて詰問したりなどし、また光明町子供会の生徒らの中には授業ボイコツトをする者も多く、混乱状態は七月八日(土曜日)ころまで続いた。その間、数日校舎正面の図書室の窓に荊冠旗(解放同盟の旗)が掲げられていた。

13  当時の吹田二中PTA(会長寺浦正一)は前記混乱状態にある吹田二中の現状を放置し難いものとし、会長寺浦正一が控訴人服部に対し解同側との話合いに応じるよう説得するなどしたがその効果はなかつた。七月一日開かれたPTA緊急運営委員会では、「母親の集い」を開くことが決定され、同月二日解放会館で開催された右「母親の集い」では六月二六日以降の紛争の原因、今後の対策等が話し合われ、控訴人服部において教育を守る会の母親達と話し合うこと、全教員がPTAと話し合うこと、教育委員会に責任の追及と事態の解決についての要望を行うことを決議した。同月三日、PTAは右決議に基づき、市教委あてに、一刻も早く事態の収拾を図り学園の平和を取りもどすため適切、有効な措置を取るよう求める要望書を提出し、控訴人服部に対しては、同日午後一時から解放会館で行われる教育を守る会との話合いに出席するよう求めた申入書を手渡した。しかし、右話合いは控訴人服部が申入れに応じなかつたため、実現しなかつた。同月六日PTAは会長名で再び市教委に対し、書面により、事態の解決のため適切な措置を取ることを重ねて要望するとともに、もし市教委のとる措置が適切でない時は重大な決意とともに最終的行動を取らざるをえないこと、またこれによつて起こる結果はすべて市教委の責任であることを申入れた。一方従前解同側に同調し控訴人らの立場に批判的であつた吹田二中教師らは六月二六日以後の混乱に対しても、控訴人服部やこれを支持する教師らの姿勢を批判する言動を継続していたが、六月三〇日市教委に対し、有志二八名の連名の書面により、解放教育推進についての決意を表明するとともに、今回の混乱の原因は市教委の姿勢にあることを指摘し、早急に責任のある具体的施策を取るよう要請した。また、七月六日には今回差別事件の焦点は服部、阿部、田村の三名の先生にあるが、問題の本質はこれまでの二中の教育、これを推進してきた教師の姿勢にあること、これによりこれまで二中においては全く解放教育は行われていないことが明らかになつたことなどについて、自己批判するとともに、今後は解同との積極的、密接な提携の下に真の解放教育とこれを推進していく体制の確立に努力する旨の宣言等を内容とする「真の解放教育推進決意宣言」を出したが、これには麻田校長以下三三名の教師が名を連ねていた。

14  これに対し、控訴人らを中心とする反解同派の教師らは前記混乱は解同側の責任であることの態度を一貫して取り続け、解同側との話合いを強硬に拒否し妥協の気配はみられず、従前からみられた教師間の対立はより深刻なものとなつて行つた。しかし解同側の動員は七月に入り次第に減少する傾向をみせ始め、前記のように同月八日ころには一応校内の混乱状態は収拾された。そして同月一〇日(月曜日)ころからは正常に授業が行われるようになり、期末試験は九月に延期されたものの、七月二〇日までの間授業時間を延長し、また八月二六日から三〇日まで補充授業を行うなどして、混乱による授業の遅れを可及的に回復する努力がなされた。

15  この間控訴人阿部及び服部は同年七月一日吹田警察署に、前者は高田支部長、宮田一男解同光明町支部執行委員、後者は右二名のほか同支部教育対策部長吉田総夫を暴力行為等処罰に関する法律違反等により告訴し(高田支部長、宮田一男は控訴人阿部に対する同法律違反等により昭和四八年一〇月起訴された。)、また吹教組吹田二中分会責任者である控訴人小川は昭和四七年七月下旬及び八月中旬ごろの二回吹田二中教職員有志代表としてビラを配布し、さらに同年八月二五日ごろ「吹田二中の御父兄の皆様へ」と題するプリントを吹田二中全生徒の父兄に郵送したが、いずれもその立場を述べ、解同光明町支部と対立するものであつた。

16  市教委としては、前記のように、吹田市同和教育基本方針及び具体的施策に基づき解同光明町支部と提携する姿勢で同和教育を進める方針を取り、控訴人服部の問題についても同控訴人に解同側と話合うよう説得する姿勢を取り続けていたが、前記六月二六日以後における吹田二中の混乱に際してはほとんど連日吹田二中校内に斉藤同和教育指導室長ら幹部が出向いて事態の収拾を図るべく努力していた。しかしその内容としては控訴人服部に解同側と話合うよう説得する以外に効果的な措置を取り得ないまま日時が経過した。そして市教委は同年七月一〇日付で市民に対し、「第二中学校の問題について」と題する書面により経過の大要を述べ所信を表明したが、「発端となつたT教諭は一年間の同和教育の実践に取り組んだ実績を認められ、市教委はより一層同和教育を推進し促進学級を担当してくれることを面接の際確認して吹田二中教員として採用したが、部落解放の願いにもえる親たちに背を向ける態度をとり、親たちとの再三の話し合いの場にも出席せず、市教委の出頭の求めにも応じなかつたため、「教育を守る会」の親達の直接学校へ出向いて本人と会おうとの行動になつた。」と説明している。ところで市教委は前記PTAからの申入れがあり、これに対しては善処することを約していたこともあり、また七月二九日には吹田市議会も事態の正常化と今後再びこのような事態が発生しないよう同和教育の強力な推進を要望する決議(事態の発端を「同対審答申の主旨を体した本市同和教育基本方針にそむいた教員の行動」とし、「偏見的にこれを助長し差別意識をさらに深めようとするかの如き一部政党のあることは誠に遺憾である。」としている。)をなしたことから、早急な対策を講じる必要に迫られることとなつた。藪教育長は前記のように事態は一応収拾されたものの、再度の混乱発生を回避し吹田二中の同和教育を正常化するためには、解同光明町支部と二中教師間の対立解消が急務であると判断し、七月末ころには右目的のため控訴人ら従前解同側に対し批判的な態度をとつていた一部教師を他校へ配置替えするほかないと考えるようになつた。そして、右藪教育長の意を受けた麻田校長はその人選をし八月二五日控訴人らを対象とする配置替を行うよう求める上申書を提出した。藪教育長は被控訴人の玉田教育長と連絡を取り、著しい不利益処分をしないこと、吹田市外へ転勤させないことの指示を受けたうえ、八月三一日麻田校長を通じて控訴人らに内示し、翌九月一日本件転任処分を発令した。なお本件転任処分は市教委と吹教組間の原則として一週間前の内示という慣行にはよらなかつた。

17  右発令内示にあたつては麻田校長から控訴人らにその理由は告知されなかつたが、新聞紙上では同年九月一日付夕刊で市教委の説明として、「本市の同和教育基本方針、具体的施策に反して地域住民との話合に応じない態度をとりつづけることは同和教育推進校である第二中学の教員として不適格」と記載されていた。

控訴人らは発令後も吹田二中へ出勤していたが、同月六日市教委で藪教育長から吹田二中の教師として不適格ではないが不適当と抽象的にその理由を告知された(藪教育長ら市教委幹部は発令に伴う混乱を避けるため八月三〇日ごろから九月二日ごろまで勤務場所に出勤しなかつた。)。

控訴人らは同月九日本訴を提起し、同月一〇日新任校に赴任した。控訴人服部は転任先の山田中学校において当初図書の司書としての仕事を命ぜられ本来の担当科目の国語の授業ができなかつたが、その後は国語を教え翌年からは担任となり、他の控訴人四名はいずれも転任先で直ちに自己の専問とする担当科目を教え、うち控訴人阿部は直ちに担任となり、翌年からはうち控訴人増成と同小川が担任となつた。

なお吹田二中では昭和四七年九月から新校舎に移り、定められていなかつた校務分掌も定められ、促進学級も設置された。

以上のとおり認められ、右認定を左右するに足りる的確な証拠はない。

三  本件転任処分が控訴人らの意に反することは前示事実によつて明らかである。そこで右処分が地方公務員法四九条の「不利益な処分」に当るかについて検討する。

本件転任処分は前示のとおり、新しい勤務場所は吹田二中と同一市内で、勤務内容も同じく中学校教諭で、勤務場所、勤務内容について不利益があるとは認められない。控訴人ら主張の新しい勤務場所では同和教育推進手当の支給を受けられなくなり、控訴人小川は養護学級担当給料調整手当を受けられず、また吹教組吹田二中分会責任者として活動の場を失つたとのことは、転任処分による勤務場所の変更に伴い通常生じうることであつて、そのことが本件転任処分を不利益な処分とするものではない(控訴人小川の転任処分が組合活動を理由とする場合は別問題であるが、本件においてはその主張立証はない。)。

しかし本件転任処分は年度途中の一週間前の内示という慣行によらない異例なものである。学校教育は年度当初に建てられた年間計画に従い進行し、しかも中学校における教育は教諭と生徒との間の人格的な触れ合いの中に行われるものであるから、教諭の転任処分は年度終了時になされるのが原則であり、特別の事情がない限り、年度途中になされることはない。そして教育基本法六条によると教員の身分は尊重されその待遇の適正が期せられることになつており、転任処分もこの趣旨に沿つて慎重適正に行われることが要請されている。ところが本件転任処分は年度途中の異例なもので、右転任処分がなされたのは前示のとおり吹田二中での教育現場での大混乱が発生した後で右大混乱に関連していることは明らかである。そして右教育現場の大混乱は関係者のみならず社会的にも注目されていた不祥事件であるから、これに関連してなされた控訴人らに対する異例の転任処分は控訴人らが大混乱の責任者であり、吹田二中での教育につき不適格者であることを示すものと解されることはいうまでもない。したがつて本件転任処分は控訴人らの名誉を著しく傷つけるものであるから、転任処分の内容が不利益とならなくても、転任処分をなしたこと自体が不利益処分となるものである。

四  その処分の事由について検討する。

被控訴人は、最終的に、本件転任処分は、吹田二中において控訴人ら五名が従来の国及び被控訴人、市教委による同和教育に関する方針に反対して同調協力せず、かつ、吹田二中当局の指示又は勧告にも服従せず、同和地区の父兄又は母親らとの間に摩擦を生じ、特に昭和四七年六月二六日より翌二七日に及ぶ同校内における徹夜交渉の決裂によつて現場の大混乱を招いたため、同盟休校の危険を回避して校内の平穏を回復する必要上取つたやむをえない措置であるという。

前認定のとおり控訴人らが昭和四七年八月三一日麻田校長を通じ転任処分の内示を受けたときなんらその理由を告げられず、同年九月六日藪教育長から吹田二中の教師として不適当であると抽象的に告知されている。そして被控訴人が同月二〇日付で控訴人服部を除く控訴人ら四名に対し交付した地方公務員法第四九条の処分事由説明書(成立に争いない甲第五七号証の一ないし四)には単に配置換えは昭和四七年度の「大阪府公立小・中学校教育人事方針」(成立に争いない乙第二六号証)及び「吹田市小・中学校教職員人事基本方針」(成立に争いない乙第三号証の七)に基づいて行われたと記載されているに過ぎない。右基本方針中本件転任処分に関係あるとみられるのは、前者については、「特に同和教育……の振興をはかるため優秀な教員を該当校に配置するよう慎重に配慮を加える。」との事項で、後者については、「1同和教育を推進するための人事は積極的におこなう。2秩序ある学校運営を期し、適材適所に配置する。」との事項で、右基本方針に従つてということでは処分事由は具体的でない。しかし前示のとおり本件転任処分は吹田二中での教育現場の大混乱に関連して行われたものであり、前記認定事実に原審及び当審証人藪重彦の証言を併せ考えるときは、吹田二中の教育現場での生徒を巻き込むような混乱の続発を回避するためと同和教育の推進を図るために本件転任処分がなされたものと認められる。

ところで右混乱の続発の可能性については、被控訴人は同盟休校の危険を主張し、控訴人らは同解同支部が大量動員をやめたのは父母を始め、市民・府民・教師らの批判の高まりによるもので混乱の続発の可能性を否定する。原審証人藪重彦は前示PTAの七月六日付書面による重大な決意とともに最終的行動を取るということは当時同盟休校と理解していたと証言する。そして原審証人寺浦正一の証言中にも右文言によつてPTA役員の総辞職あるいは同盟休校というようなことまで発展するかも分らない心配があることを訴えたのであるとの供述があるが、右供述は同証言中にうかがわれるように、本件混乱が続いている最中に、授業も満足にできない右混乱に対して父兄も同盟休校をもつて対処せよとの一部父兄の怒りの声を表現したものであつて、混乱が収まつた後においてもその原因が除去されなければPTAが同盟休校の措置を取るというものではない。しかし再度の大量動員による混乱の続発は、さきに発生した大混乱と同様の現存の法秩序に対する暴挙となる点において、これを発生させることは容易であるとは考えられないが、同解同支部が既に右のような二週間の大量動員をして糾弾闘争をしていること、前記認定の吹田市窓口一本化にみられる闘争的な姿勢、弁論の全趣旨によつて成立の認められる甲第一一五、第一一六号証によつてうかがわれる、本件大混乱発生以前ではあるが昭和四六年六月中の吹田市の榎原市政に対する解同光明町支部も加わつた動員による闘争的な姿勢等に鑑みると、前記大混乱発生の原因がそのまま残つていては混乱が続発する可能性が十分予想される。弁論の全趣旨によつて成立の認められる甲第一三、第一四号証、第一七号証によつてもうかがわれるように、控訴人ら主張の解同光明町支部の暴挙に対する批判があつたことは認められるが、右批判によつて混乱続発の可能性がなくなつたとは認めがたい。そして再度の混乱の発生は二度とあつてはならないことで、これを防止することは教育行政をつかさどる市教委にとつて至上命令であることはいうまでもない。

ところで前記大混乱の原因となつたのは同解同支部の推せんを受けて吹田二中の教諭となつた控訴人服部が推せんを受けるに際して同解同支部に差入れた誓約書により採用後の教育活動につき同解同支部の助言と指導に従うことを約していたにかかわらず、これに反し、同解同支部の要求する補充学習に出席せず、また吹田二中での促進学級の設置等にも協力せず、同解同支部の話合いの要求をも拒否したことによるものであるところ、同控訴人は大混乱中もその後もその態度を変えていないのであるから、同控訴人が吹田二中にとどまるときは、大混乱発生の原因がそのまま残つていることになり、混乱が続発する可能性が十分予想されるものといわなければならない。したがつて市教委としては混乱続発の可能性がある以上、これを防止するためには、同控訴人を吹田二中から去らせて混乱続発の原因を取り除くことが最も効果的な措置であり、同控訴人に対する本件転任処分は混乱の続発を回避するためその必要があつたものである。

しかし控訴人増成、同松田、同小川、同阿部の本件転任処分については混乱の続発防止のため必要であつたとは認められない。前示のとおり控訴人増成、同松田は従来吹田二中での同和教育を実践してきたが、同和教育における教師の主体性を重んずる立場から、これを教師に任せておけないとする解同光明町支部及び同解同支部との連携を強調する市教委を批判し、控訴人小川もこれに同調してきている。そして控訴人阿部も前示本件混乱に際し控訴人服部を救出しようとしあるいは同解同支部長高田らを告訴した事実から見られるように控訴人小川と同様控訴人増成同松田に同調してきたものである。したがつて右控訴人ら四名の転任処分は当面の促進学級の設置を含めて市教委の行う同和教育行政が推進され、吹田二中における教師集団の対立の解消、解同光明町支部との関係を円滑にする必要からなされている。しかし大混乱発生の原因は前示のとおり控訴人服部の行為に対してであり、同控訴人が解同光明町支部に協力せずまたその要求に応じない態度を取るについては控訴人増成同松田らの行動からの感化があつたことは前認定のとおりであるが、右のような態度を取つたことが、他の控訴人からの示唆又は共謀によるものであるという証拠はない。また控訴人阿部の吹田二中を守る会の会員に対する暴力行為(ただし弁論の全趣旨によつて成立の認められる乙第九、第一〇号証によつても的確には認められない。)、高田支部長らに対する告訴、吹教組吹田二中分会責任者である控訴人小川が有志職員一同として混乱発生の原因についての文書を配布したことはいずれも大混乱中又はその後に派生した問題であつて、大混乱の原因ではない。

五  右処分事由によつてなされた本件転任処分が裁量権の範囲を超えた違法なものであるかについて判断する。

さきに発生した大混乱は解同光明町支部の法秩序を破る不当不法な行為に基づくものである。同解同支部が控訴人服部が教師となるため解同を利用したと憤激する心情は理解できないものではなく、その動機について酌量の余地があるとはいえ、(1)誓約書による同解同支部との提携の約は同控訴人と同解同支部との間の私的なものであるにかかわらず(右誓約書は後記のとおり法律上無効である。)、(2)同解同支部が公的な場所、しかも中学生の教育の現場に二週間も引続き大量動員をして糾弾闘争をし生徒を巻込み教育現場に大混乱を発生させたことは現存の法秩序から見れば暴挙というべきである。市教委及び麻田校長としては右大混乱発生に際して学校教育を守り、教育を受ける生徒及び教育にあたる教師を守る立場から、毅然として同解同支部に学校からの退去を求める申入れをして厳重に抗議すべきものであつたことはいうまでもない。そして右申入れ、抗議が聞かれないときは、秩序回復のため警察力の導入を要請すべきであつたとの論も考えられないではなく、同様の混乱の続発の可能性に対しても毅然たる態度を取り警察力の導入を要請してでも右可能性を防止するとの態度を表明してこれに対処すべきであつたともいえる(警察力の導入はよりいつそうの大混乱を招く恐れがあり、また中学という教育現場に警察力を導入することは決して望ましいことではないが、やむをえない最後の策といえる。)が、市教委及び麻田校長としては同解同支部の大量動員を事前に知つていたのに特に対策を立てず、大混乱が発生した後も右のような毅然たる態度を取ることなく経過し、前示市教委の七月一〇日付の「第二中学校の問題について」(乙第三号証の三)中でも同解同支部の行動をいささかも批判しておらず、市教委の混乱の発生、継続に対して取つた態度にも非難さるべきものがある。

しかし混乱の続発の防止は教育行政上至上命令であるから、右のような大混乱が解同光明町支部の暴挙に基づくものであること、市教委の右暴挙に対応する態度を考慮しても、同控訴人が作成した誓約書による同解同支部との約定が本件混乱発生の原因であり、右作成について同控訴人に少なくとも軽率さが咎めらるべき点からして、同控訴人に対する転任処分が裁量の範囲を超えたものということはできない。

前示のとおり控訴人増成、同松田、同小川、同阿部の転任処分の事由は混乱の続発の回避のためとは認められない。同控訴人らの言動は自己の教育的立場から解同光明町支部及び市教委の同和教育に対する態度を批判し、その意見を述べたもので、市教委、校長の教育行政を積極的に妨害したものと評価できない。地区学習(補充学習)は本来的な勤務内容となつておらず、また促進学級の設置も調査段階で煮詰められていない。したがつて前示転任処分の事由と認められる、吹田二中での同和教育の推進、教師集団の対立の解消、解同光明町支部との間の円滑化という理由だけで、異例な年度中の転任処分という不利益処分をすることは程度を超えたものということができる。そして(1)不利益処分を行うについてはそれに相応する事由を必要とするのに、右控訴人ら四名の転任処分については混乱の続発回避という事由が認められないこと、(2)右転任処分は大混乱に関連してなされているが、右大混乱は解同光明町支部の暴挙に基づくものであり、また市教委の取つた態度にも非難さるべき点があるのに、市教委は同解同支部を批判せず、また自己の態度についての反省もなく、大混乱とは直接関係がない同控訴人ら四名に対する不利益処分がなされていること、(3)したがつて第三者には一方的に右控訴人ら四名が大混乱の責任者とみられることになることに照らし、また(4)前記教育基本法六条の教員の身分の尊重、待遇の適正が期せらるべきであるとの規定により転任処分もこの趣旨に沿つて慎重適正に行われるべきことを考慮すると、同控訴人ら四名に対する本件転任処分は著しく妥当性を欠き、裁量の範囲を超えた違法なものというべきである。

六  控訴人服部に対する転任処分が違法であるとのその他の主張について順次検討する。

1  本件転任処分は、解同光明町支部の意に従い、その圧力に屈して控訴人らを吹田二中から排除せんがために発令したもので、教育の自主性、中立性、教育権の独立、教員の身分の保障を規定した憲法二三条、二六条、教育基本法六条二項、一〇条一項、二項に反して違法であると主張する。

そしてその前提として、市教委が定める同和教育基本方針及び具体的施策は特定運動団体たる解同光明町支部と提携して同和教育を行うことを要求するものであり、その自体憲法二三条、二六条、教育基本法一〇条一項に違反すると主張するので、まず、この点について判断する。教育基本法一〇条一項は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と規定し、教育の自主性を法的に保障している。教育特に学校教育が、教師と生徒との全人格的な結びつきを基盤とし、生徒の人間形成に重大な影響を及ぼすものであることからすれば、教育内容についてもその方法についても教師の自主性と創意が最大限度に保障されなければならないことは当然のことであり、右規定は根元的には憲法二三条の学問の自由、同法二六条の教育を受ける権利の各保障規定に基づくものである。そして右にいう「不当な支配」の内容としては、通常の場合、政治的、社会的な勢力による教育支配が考えられるが、教育行政面において行われる教育支配も、それが法的拘束力を持つたものであるだけに、その影響力は右に勝るとも劣らないものであるから、その支配が不当であるときは、右法条の規制に服するものといわなければならない。もちろん行政機関が教育内容や方法について一般的な準則を定め、適正な教育が行われるよう指導することは右法条に何ら抵触するものではないから、市教委が同和教育の取組方について、基本方針及び具体的施策を定め、教育現場を指導すること自体は何ら禁じられるものではない。そこで右基本方針及び具体的施策の内容に立入つて検討してみるに、前記認定のように、吹田市同和教育基本方針は同和教育を「民主主義の原点」と位置づけ、「これにとりくむ教職員はその責務を十分に自覚し、みずからの課題として部落の解放にとりくまねばならない。」と同和教育を担当する教師の心構えを明らかにしており、また具体的施策は連携と組織の確立の項において、「同和地区を有する学校では、解放同盟を中心に地区内諸団体との連携を密にして、地区の「同和教育推進協議会」(仮称)に対する積極的な助成活動を行なう。」と、同和教育につき解放同盟が主要な提携の対象であることをそれぞれ規定している。右基本方針が同和教育を民主主義の原点と位置づける点については、民主主義確立の基礎となる教育(民主教育)は同和教育だけにとどまらず、社会の各層に残存する非民主的な思想の排除に向けられるべきものであることからすれば、表現として適切ではないと認められる。しかし前記認定のように、部落差別が民主主義を強調する憲法の下においても、なお抜き難いものとして社会の深層に定着している現実を直視すれば、右表現をもつて直ちに著しく不当なものとはなし難いものがあり、また解放教育に取り組む教職員の心構えについての規定についても、解放教育に対する教職員の積極的で使命感に燃えた取組を期待する精神規定とみることができ、必ずしも教師の教育活動が解放運動に従属すべきことを推論させるものとはなし難いから、直ちに教育の自主性、教育権の独立を否定したものとはいえない。また具体的施策が掲げる、「解放同盟を中心に地区内諸団体との連携を密にし」との規定も、当時現実に同和地区住民を組織化していたのが解同であつたことからすれば、これとの提携を中心に同和教育を進めることを考えることは当然のことであるから、これを不当視することもできない。問題は、右提携について教育基本法や前記認定の大阪府の基本方針が規定する教育の主体性、自主性が維持されるか否かにある。そして前記の規定は右観点からすれば、表現において適切さを欠くもので、誤り解釈される危険性も考えられるが、右不適切さのゆえに、右吹田市の基本方針や具体的施策そのものが直ちに教育の自由性や教育権の独立の侵害に結びつき、前記各法条に違反するものとはなし難い。ただ教育の主体性、自主性が民主教育における重要な柱であることを考えれば、教育委員会の提示する行政指針としては、大阪府の基本方針のごとく、同和教育について教育の主体性を保つべきことを明示的に規定すべきであり、また団体との提携についても、大阪府の基本方針が、「関係諸機関および諸団体との連携をいつそう密にして」と規定する慎重な態度をもつて妥当とすべきである。なお前記認定事実によれば、市教委としては、吹田市内における同和教育の推進について解同との提携を強調する傾向にあつたものであり、前記具体的施策にもその旨を明記していたものであるが、同和教育の推進につき解同との提携をするか否か、あるいはどの程度提携するかはそれ自体同和教育の実施にあたり行われるべき一つの選択の問題であるから、これをもつて直ちに不当な教育行政であるということはできない。

そこで控訴人服部に対する本件転任処分につき、前記法条に違反する点がないかを検討する。まず解同光明町支部が控訴人服部を吹田二中教員として推せんするに際し前記認定の誓約書を徴した点についてみるに、右誓約書の内容は前記のごとく、解同の助言を受けてというようなものではなく、解同の助言と指導に従つて教育にあたることを誓約したものであり、また前記のように吹田二中内部に現存する解同側教師と非解同側教師との間の深刻化した対立の中にあつて解同側教師と提携して教育活動にあたることを求めるものであり、控訴人服部が教師として採用された後の公的な教育活動まで拘束しようとするものであることは明らかであるから、右誓約書自体はまさに教師の自主性、主体性を否定する不当な内容の、法律的には無効なものであるといわざるをえない。本件においては、教育委員会が控訴人服部の採用にあたり右誓約書の存在を条件としたものとは認め難く、また解同側が自らの希望する教育の実現を期待して控訴人服部を教育委員会に推せんしたこと自体は不当でないとしても、教員の採用につき右のような不当な拘束を内容とする誓約書が取り交わされ、しかも前記認定のように市教委側がその存在を認識しながら、特段の指導をすることもなく、これを看過したことは、非難さるべきものである。またいかに新任の教師としての採用を熱望する余りとはいえ、控訴人服部が前記のように内容的に問題のある誓約書を解同側から要求されるままに提出したことは、明らかに軽率な行動であつたといわなければならない。ところで本件転任処分がなされたのは、前記のように、控訴人服部が右誓約書の趣旨に反し、採用後解同側の希望する補充学習等に協力しなかつたことから、これに憤激した解同側が同控訴人との話合いを求めて吹田二中へ来校し、教育現場に大混乱を引き起したことに原因するものである。右混乱の過程における解同側の行動は大挙して学校へ押しかけ、一晩中教師を軟禁状態に置いて追及したり、生徒の面前で教師に暴力を振るい、授業の妨害や教師に対するいやがらせをするなどその方法において極めて不当なものがあるばかりか、結果として、学校教育の現場に大混乱を引き起こし、二週間にわたり教育計画の実施を妨害したものであつて、これにつき解同側に重大な責任のあることは前示のとおりである。そして右のように解同側の所為がその態様からみて極めて不当なものであり、しかも教育現場において教育活動に従事している教師にまで向けられたものであることからすれば、右はまさに教育基本法一〇条一項に規定する「不当支配」の原因となる行為に該当するものということができる。(ただ前記誓約書は法律上無効なものであるとはいえ、解同光明町支部の推せんを受け教師に採用された控訴人服部が、解同側の希望する補充学習に協力しないばかりか、促進学級担当予定者として採用されながらその準備活動をも拒否し、解同側父母との話合いにも応じない態度を取り続けた経過からすれば、同控訴人が教師になるため解同を利用したと憤激する解同側の父母の心情も理解できないでもなく、解同側が本件大混乱を引き起こした動機については酌量すべき余地があることはさきにも示したとおりである。)しかし前記認定の事実によれば、解同光明町支部としてはあくまで控訴人服部が補充学習、促進学級などに協力することを求め、またその目的のため同控訴人との話合いを要求していたことは認められるが、同控訴人を転任させ吹田二中から排除することを要求していたと認めるに足る証拠はないから、解同光明町支部の行為と本件転任処分との間の関連はあくまで事実上のものに過ぎない。そしてまた控訴人服部に対する本件転任処分は、前示のとおり、再度の混乱発生の可能性が十分予想される状況下においてこれを防止する目的に出たものであつて、右混乱を発生させる者が何人であるかを顧慮してなされたものとは認められないから、右転任処分が解同光明町支部の不当な支配に屈してなされたものと評価することはできず、本件転任処分が教育基本法一〇条に違反するものではない。また右混乱の原因を作り出したことに軽率さが認められ、吹田二中で教育活動を行うことが困難な控訴人服部を同控訴人に及ぼす不利益を最少限度にとどめて吹田市内の中学校へ転任させた本件処分は同法六条二項に違反するものではない。そして控訴人主張の憲法二三条、二六条に違反する点もない。

2  本件転任処分につき憲法一九条、一四条一項の違反があると主張する。

しかし前記のとおり、控訴人服部に対する本件転任処分は、吹田二中における異常事態の発生に直面した市教委が混乱再発防止のため教育行政上やむをえないものとして取つた措置であり、同控訴人の思想信条を理由として、またそのことのゆえにこれを差別する意図でなされたものでないことが明らかであるから、本件転任処分に控訴人主張のような違法はなく、右主張は失当である。

3  本件転任処分は吹田市における労使慣行及び人事方針に違反して行われたもので違法であると主張する。

市教委において従来から教員の異動にあたつては少なくとも一週間以上前に本人に内示し、本人の意思を打診したうえこれを実施してきたことは当事者間に争いがなく、前示のとおり甲第四二号証によると、市教委と吹教組との間に原則として一週間前に内示の慣行があつたことが認められる。しかし本件事案のような本人の意思に反する不利益処分をなす場合には原則によらないことにつき合理的理由があるものと見られるから、控訴人の主張は理由がなく失当である。

4  本件転任処分は市教委の藪教育長が被控訴人の玉田教育長の行政指導を無視してなした違法があると主張する。

しかし前示のとおり右主張に沿う甲第一五号証の記載はたやすく信用することができず、原審及び当審証人藪重彦の証言によつて認められるように本件転任処分は被控訴人の事前の了解のもとになされたものであるから、右主張は失当である。

七  そうすると控訴人増成、同松田、同小川、同阿部の本件転任処分の取消を求める請求は正当として認容すべく、控訴人服部の本件転任処分の取消しを求める請求は失当として棄却すべきである。

よつて控訴人増成、同松田、同小川、同阿部につき、原判決を取消したうえ同控訴人らに対する各転任処分を取消し、控訴人服部につき本件控訴を棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民訴法九六条、九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 村瀬泰三 林義雄 弘重一明)

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